特集 宗教改革から何を学ぶか いま「念い」に「記す」べきこと

神戸ルーテル神学校 教授 橋本昭夫
宗教改革は、マルティン・ルターが、一五一七年十月三十一日に、ヴィッテンベルクの城教会の扉に「九十五か条の提題」を公示したことに始まるとされる。この文書は正式には「贖宥の効力を明らかにするための討論」。内容は、当時のローマ・カトリック教会の救済の教理を背景にした高度に神学的なものであった。一般庶民は、そこで何が問題とされているのかを知ることもなかった。そんな文書を、無名の神学者であった彼が、その牧会者的懸念から学的討議へ招待したことが、歴史を大きく方向づけることになった。

しかしこの文書は、長い間ローマ・カトリック教会を成立させてきた二つの前提を否定する福音的洞察を内包していた。ゆえに、早晩、教会を根底的に揺るがす定めにあった。人の救いは「恵みのみ・信仰のみ」であり、それを「福音」とし、告げ知らせているのは「聖書のみ」であり、教皇は救いの真理についての最終的権威ではないとする洞察であった。
ルターの時代、救いの教えは「告解の秘跡」を軸としていた。それはすでに「定着」していて特に神学的な問題となることはなかった。告解の秘跡というシステムの中では、一般人の関心は、救われ最終的に御国に入れられる前に通過すべき「煉獄」にあった。
聖人でもなく極悪人でもない一般の人は、天国にも地獄にも直には行かない。つまり、人々にとって、煉獄は最終的救済の前段階であって、問題は告解の秘跡で、司祭に罪を告白し、赦免の宣言を受けたあと、「償罪(断食、巡礼、喜捨など)」が求められていた。ところで、聖人でもなく修道者でもない人々の常として、在世中には償罪は完結せず「積み残して」逝く。それを煉獄で「決済」するのである、そして煉獄の期間および苦行は、それぞれの「積み残し分」に応じたものとなる。その「決済」をもって天国に至る、とされた。

煉獄は地獄ではない。しかし一般的には、「火で練り浄められる」(煉獄の字句どおりの意味は「浄罪所」)であり、そのイメージからほぼ地獄と受けとめられていたであろう。このような煉獄思想に導入されていたのが「贖宥」であった。教会は、「積み残し分」のため、何らかの貢献のあった場合に与えられたのが「贖宥」であった。それは煉獄での期間を短縮あるいは全面的に免除するとされた。やがて「償罪」も、献「金」で代替えができるようになっていく。贖宥券販売集金箱に貨幣が「チャリンと鳴るやいなや魂が煉獄から飛び出しただちに天国に入れられる」という贖宥券販売人の口上は、以上のようなことを背景としていた。
ルターは、あの記念の日に贖宥券の効力についての討議を呼びかけた。そのときルターはすでに贖宥の教理を誤りとする聖書的福音を「再発見」していた。じつは贖宥の前提には、救いのために幾分であっても人間の寄与が不可欠だとする教理があった。このことは、神のみ前に人が「義(「よし!」)とされる」のは、つまるところ、人の宗教的・道徳的資質にかかっているということになる。ルターは、そのような教理のもとで長く苦しむ中、「福音のうちには神の義が啓示されている」(ローマ1・17)というみことばを中心に、「神の義」は人間の一切の関与なしに、ただキリストゆえに「与えられる(!)義」であるという、福音の根源的認識に導かれていったのである。

ところで宗教改革はさまざまな事情を前提とし、さまざまに展開をした世界史的出来事として多く論じられる。しかしその本来の意味は、一にも二にも、「与えられる義・信仰による義」という神の恵みの再発見にある。それは、一人ひとり、つまりこの「私」が、キリストのゆえに、そのお方への信頼ゆえに、どのような状況の下にあっても、赦され・許されて(「義とされて」)生きることが認められているという救いである。私の一切の不十分さにもかかわらず、キリストの贖いゆえに、なお「よし!」と宣言してくださる神への信頼、それこそが根源的な意味での福音である。私は、もはや自分の立派さや、有能さや、出しえた「結果」によって自分の存在を弁明し正当化せねばならないという強制から解放され自由にされている。宗教改革のメッセージとは、なお不断に今も変わらずその逆を行こうとしてやまない「私」の罪(エレミヤ2・13)からの「悔い改め」への恵みの呼びかけなのである。
福音信仰に生きるとされた者も、その歩みにおいて誤りうる。ルターとても例外ではない。しかし「私」を義としてくださる神は、罪人を自覚するこの「私」を「自己を義としようとする」小心から解放し、恐れと信頼のもと、この生の現実を祈りつつ、望みつつ、奉仕して生きていくことをいま得させてくださっている。宗教改革がなお告げ知らせているのは、この自由の福音である。自己主張と成果主義、内外からのさまざまな恐れのもとにある現代、それによって失われてしまっている、神のかえりみにあるいのちの祝福の根源的回復こそが宗教改革の色あせることのないアクチュアルなメッセージなのである。このことを抜きにしては宗教改革の記念の意味は薄れる。

ルターは、あるとき、修道院の上司・牧会者であったシュタウピッツに、「お望みなら神は何人もマルティンを起こされます」と語っていた。当時、修道士であり、辺境の大学の無名の聖書教師であり一人の求道者であったルターを、神はご自身のこの世界に喜びの福音を回復する器として用いられた。
それは、いまこの日本でその福音に生かされている私たちの各々は、無名でそのなすことは、たとえ微少に見えたとしても、ルターと同じく神の恵みの器として用いられるのだということも、宗教改革五百周年に、心に留める。神はそのようにしてご自身の国を人知れず進めてこられたからである。

 

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ティム・ダウリー [著] 青木義紀 [訳]
プロテスタントの信仰を生み出し、世界の歴史を一変させることになった宗教改革。その全体像を、改革へと向かう変化の時代から、ルター、カルヴァン、反宗教改革、そしてザビエルらによる日本への宣教に至るまで概観する。
190×240mm 160頁 定価2,400円+税