あたたかい生命と温かいいのち 第九回 温かい心がしまわれている場所

福井 生

1966年滋賀県にある知能に重い障がいを持つ人たちの家「止揚学園」に生まれる。生まれたときから知能に重い障がいを持つ子どもたちとともに育つ。同志社大学神学部卒業後、出版社に勤務。しかし、子どものころから一緒だった仲間たちがいつも頭から離れず、1992年に止揚学園に職員として戻ってくる。2015年より園長となる。

この六月に韓国で崔恵媛さんが創立された、知能に障がいをもつ人たちの施設「静恵園」を訪ねてきました。ソウルから地下鉄と車で一時間ほどの議政府という町の郊外にあります。崔さんは女性で、四十五年前止揚学園で実習をされ、帰国後、静恵園を作られました。
私の祖父は韓国の人でした。慶尚南道の南海島で生まれ育ち、日本に渡ってきて、近江兄弟社に勤めることになりました。工場で薬品を作っていたのです。崔さんのお父さんも、兄弟社のヴォーリズ設計事務所に勤めておられました。その時からの崔さんと私たちとの心の繋がりなのです。
「ただいま」「韓国の家に、お帰りなさい」
私が照れているにもかかわらず、崔さんは満面の笑みで強く抱きしめてくださいました。
入園されている方々の中の何人かは、崔さんと一緒に止揚学園に来られたこともあります。久しぶりの出会いに懐かしさがこみ上げてきます。
祖父は一九〇六年生まれですから、その四年後に韓国は日本に併合されることになります。長命で、百六歳まで生きました。私は積極的に祖父の若いころのことを尋ねることをしませんでした。もっと詳しく聞いておけばよかったと今になって思います。私の育ってきた止揚学園は、障がいをもつ人、もたない人、ときにはインドの人、パキスタンの人、韓国の人といろんな方がおられました。ですから、人と違うことが普通の生活の中で、祖父の話し方や生活のさまに韓国の風習を感じることがあっても、あえて祖父に尋ねる必要もなかったのかもしれません。

十年前、祖父の故郷である南海島を訪れ、にんにく畑の中に立ち、祖父の生活の軌跡を遠くに探しているうちに、?にあたる風が清々しく、私の中にもこの国の血が流れているのだと思いを膨らませたこともあります。
今回私がソウルに行くことを娘に告げると、韓国のアイドルグループのCDを買ってくるように頼まれました。とても人気があり、ソウルで先行販売された後、日本でも売り出されるというのです。
現代の若者の、韓国という国の一つの捉え方です。何の隔たりもなく、微笑ましい融和があります。ある意味羨望さえ感じてしまいます。
明洞はソウルの賑やかな繁華街です。それぞれの店舗が流す大音量の音楽と、若者向けの化粧品や衣類が氾濫する中、私はCDを買い求めました。何となく若者に近づけたようで得意になっていたことも正直な気持ちです。行きかう人々の中にたくさんの日本人を見ました。ここは日本統治時代には日本人の居住区だったのです。そんなことを意識している人は何人いるのだろうかとふと考え、そのことと、このことは違うのだ、また私の悪い癖が出てきたと歩いているうちに、喧騒の中、立ち止まってしまったのです。
歴史の中で、私たち日本人が韓国人に強いたことを忘れ去ることはできません。一つの国が一つの国を支配しようとしたとき、どれだけの人々の苦しみがあったでしょうか。人が人を軽んじることによって、軽んじられた人は、その人の親は、その人の友人は、その人とともに歩む人たちはどれほど心がえぐられたことでしょう。その傷は癒やされることがないのです。私は日本人として、このことから目をそらすことや、過去のことと済ませることはできないのです。
私たち一人ひとりの心が国家を形成しています。一人の心の中には意地悪な心もあります。温かい心もあります。しかし、この温かい心がしまわれている場所をときどき私たちは見失ってしまうのです。

静恵園から止揚学園に帰る日の朝、知能に障がいをもつ仲間たちが笑顔で送り出してくれました。その笑顔に私は思うのです。私たちの中にしまわれている優しい心の場所を教えてくれるのは、この仲間たちなのだと。この仲間たちがいる限り、私たちは国と国の違いを超えて神さまの光の方へ前進していくことができると強く思うのです。
人は、その場所で初めて平和の意味を知ることができるのかもしれません。この思いを崔さんに文章にしてもいいですかと尋ねました。
「かならず私の名前の前に『美しい』とつけてください。
『美しい崔さん』と書いてください」
仲間たちの優しさに包まれて、崔さんはどこまでも明るいのです。
「いってきます」「いってらっしゃい」
崔さんと静恵園の皆様に感謝しつつ、止揚学園に帰ってみんなの笑顔に早く包まれたいと急に胸を締めつけられつつ、大きく手を振り、静恵園を後にしたのです。