時代を見る眼276 四街道

惠泉塾 後藤敏夫

 

[3]『神の秘められた計画』福音の再考 喪われた共同体

「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」(使徒17・21)
このみことばに、私は今の日本社会と文化状況を思います。世界の人口が流動化し、古い都市国家の誇り高い価値観や生活様式が崩壊する過程で、情報としての言語があふれ、ただひたすらあれやこれやのおしゃべりに日々を消費する生き方に、私は現代日本を思います。
今、人間が崩れ、人の世が壊れて行くのを感じています。温もりのある関わりを喪って、砂粒のようにばらばらになった不安な個が渇くようにネットにつながりをさがしています。
社会は液状化し、立ちすくむ国家は、古き国体の回復に幻想を抱いて、「わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけて」います(アモス6・3)。
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教会も共同体としての生活と身体性を喪っています。現代の神の民が拠り頼むものは、お金、馬と戦車の力と数、国際条約であるようです。伝道のための魅力的なイベントも、神学的な議論や出版物でさえも、種子は大地に蒔かれることなく、個人的趣味のようにプランターに栽培され、実を結ぶことなく消費されているように私には思われます。
キリスト教は本来、信者の共同体の生き方でした。ただおひとり御父への道であられるお方とともに(ヨハネ14・6)、神の国に向かって歩む民の「道」でした(使徒9・2等)。主は「救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(使徒2・47、新共同訳)のです。
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『神の秘められた計画』で、私はでき得る限り、自分の立ち位置を明らかにしようとしました。拙著を書くように促してくれたのは、著者が属する信仰共同体の交わりであり、とりわけその牧者に向き合って生きる日々です。
私は、信仰書にはもちろん、客観的な叙述が求められる神学書にも、書斎や教壇の生活だけでなく、著者が自分の属する信仰共同体で民とともに主を賛美している姿を感じたいのです。
読者の皆さんが小著に、この時代を愛し合って生きようとする主の小さき群れを感じ取ってくださればそれにまさる喜びはありません。