私の信仰 履歴書 第三回 人生は出会いで決まる

野田秀

「人生は出会いで決まる」と言います。「出会い」は偶然に過ぎないと考える人がありますが、聖書はそれを神の摂理であると教えます。摂理とは、人の思いや願いを超えた神の計画であり、導きのことです。私は自分の生涯を振り返るときに、心から、神の摂理の不思議に驚き、感謝するのです。

すでに述べたように、小学四年生のころ、わが家は東京の中野から荻窪に引っ越しました。二軒先に美代子ちゃんという二歳下の子がおり、私たちはすぐに仲良しになりました。妹がいなかった私にとって、彼女はちょうどそんな存在であったからです。
戦争が激しさを増して来た昭和十九年(一九四四年)夏に、私たち家族は、父の赴任地であった宇都宮に疎開をかねて転居します。一年後、戦争が終わり、中学、高校時代に精神的放浪の状態と学業不振に陥った私でしたが、その後、東北大学に入学が許され、仙台で学生生活を送ることになります。

あるとき、あの美代子ちゃんはどうしているだろうかと急に懐かしくなった私は、東京に突然彼女を訪ねました。その日、別れてから九年近くが経ち、もう美代子ちゃんというよりも大人の女性になった美代子さんをまぶしく眺めることになります。その後、文通を続けた私たちでしたが、昭和二十八年(一九五三年)三月、春休みに上京した私は、彼女の勤務先のあった有楽町で彼女に会い、喫茶店で語らいのときを持ちました。
そのとき、美代子さんが「これから教会に行きませんか」と言ったのです。彼女はクリスチャンになっていたのです。あの瞬間、彼女は単なる幼なじみではなく、福音の伝達者へと変わっていたことになります。彼女のそのひとことが、私の人生を大きく変えることになるとはつゆ知らず、連れて行かれたのは有楽町駅近くのインマヌエル丸の内教会でした。それが、私がキリスト教会という所に足を踏み入れた最初でした。摂理の神の御手が静かに私に伸べられていたのです。

二百人はいたであろう会衆に混じって座った私でしたが、あまりに大勢の人であり、男性の席と女性の席が分かれていたので、人を意識せずに済んだのは幸いであったかも知れません。その夜、蔦田二雄師がピリピ書四章六節(文語訳)を開き、「電車の吊革にぶらさりながらもピリピ四六、お勝手で夕飯の準備をしながらもピリピ四六と覚えなさい」と話されたことが、今も耳朶にはっきり残されています。
これがきっかけとなり、仙台に帰った私にキリスト者学生会(KGK)の「夏期学校」(第六回)の案内が届きます。不思議なほどためらうことなく参加を決心したのですが、たった一人で長野県の志賀高原で開かれる集会に参加しようとした勇気は、いったいどこから来たものだったのでしょうか。バッグの中には、高校生のときに大場廣くんから贈られた聖書がありました。
一軒の宿屋さんを会場にして開かれた夏期学校でクリスチャンの大学生たちとともに過ごした五日間は、それまで味わったことのない別世界でした。蔦田二雄師、小島伊助師といった器たちの語られる説教を十分理解出来たわけではなかったのですが、精神的放浪状態にあった私のたましいに、確かに主イエス・キリストがいのちを吹き込んでくださいました。最後の日、私は罪を悔い改め、十字架につかれたキリストを単純に信じて生まれ変わったのでした。それは昭和二十八年(一九五三年)八月七日、二十一歳のときのことでした。その夏期学校で七人の学生が救われ、そのうちの四人が後に伝道者になったと記憶しています。

仙台に帰った私の課題は出席する教会が定まらないことでした。それは、まったく私のわがままによるものであったのですが、そのころの経験が、後に牧師になってからの参考になろうとは考えてもみませんでした。ただ、数人の学生とともに、モーセ・サビナ師の聖書研究会に参加することによって、信仰が保たれたことは大きな幸いでした。
昭和三十年(一九五五年)四月、就職して東京で生活を始めた私は、再び神の摂理の御手に捕らえられることになります。
「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」(詩篇139・14)