聖書 新改訳2017 どう新しくなるのか?〈4〉簡潔で読み易い訳文

日本語の変化に対応することの重要性は、すでに記しましたが、日本語に関する課題はほかにもさまざまにあります。新改訳聖書の初版が出たころ、「丁寧すぎる」とか「冗長」といった声を耳にしました。特に、日本聖書協会の「口語訳」聖書に慣れていた人たちには、そう感じられたのではないかと思います。実は、私自身もそうでした。「丁寧すぎる」表現のなかには、原文の意味を忠実に再現しようとした結果、というケースもありますが、改善の余地がないわけではありません。そこで今回、可能な限り、簡潔で読み易い訳文を目指しました。

よりシンプルな訳文に変えるための工夫の一つは、不要な代名詞を省くことです。例えば、第三版の使徒の働き21章40節に、「千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した」とあります。「それを」と「彼は」を削り、少しばかり手を加え、「千人隊長が許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手で合図した。そして、すっかり静かになったとき、ヘブル語で次のように語りかけた」とすると、よいのではないでしょうか。
ルカの福音書15章の「放蕩息子のたとえ」で、主人公が父親に対して語った(語ろうと考えた)言葉に、「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」というものがありました(同19、21節)。このような場面でしたら代名詞は不要で、「もう、息子と呼ばれる資格はありません」と、シンプルに訳すことができるでしょう。

省略できるのは代名詞だけではありません。「使徒たち以外の者はみな」(使徒8・1)を「使徒たち以外はみな」と変えるような小さな修正が、数多くの箇所で可能です。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」(同節)という訳は、聖霊に対する敬意を払ってのことと思われますが、文の途中では、「臨むとき」でよいでしょう。また、単独で「御名」と訳される表現は、ギリシア語の原文では「彼の名」で、「彼」が神を指す場合です。したがって「イエスの名」とあれば、わざわざ「イエスの御名」としなくてもよいはずです。そこで、マタイの福音書の結びにある、「父、子、聖霊の御名によって」は、「父、子、聖霊の名において」と変わることになります。

接続詞もまた省くことができます。特に、「というのは」、「なぜなら」といった理由を示す接続詞は、文の最後に「?からである」とあれば、不要です。「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」(ヨハネ1・17)という文から、「というのは」を省いても、差し支えありません。「なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです」(使徒13・47)という文も、「なぜなら」なしで意味が通じます。実のところ、省いたほうが文の流れがたどり易くなるというケースが、かなりあるのです。
さらに、文中に敬語が二重に使われている場合、途中の敬語を省くことができます。「どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください」(マルコ5・23)は、「どうか来て、娘の上に御手を置いてやってください」でよいでしょう。一刻も早くという父親の思いを表すには、後者のほうがふさわしいかもしれません。
さらにまた、主動詞+分詞、あるいはダブルの動詞といった形で、動詞が重複している文の多くは、簡略化できます。「答えて言った」は「答えた」(マタイ8・8など)、「説明して言った」は「説明した」(使徒11・4など)、「叫んで言った」は「叫んだ」(黙示録6・10など)といった具合です。ただし、機械的な修正はできません。応答であることを明示すべきときには、単純に省かず、第三版と同じく「宦官はピリポに向かって言った」(使徒8・34)とするか、「ヤコブが応じて言った」(同15・13)というように、表現を工夫します。

丁寧すぎる表現ということでは、サマリアの魔術師シモンに対する言葉、「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです」(使徒8・20)は、その典型かもしれません。字数自体はあまり変わりませんが、叱責らしく、「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえは金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ」とすべきでしょう。主イエスの宮きよめに反発した者たちの言葉も、「見せてくれるのですか」ではなく、「見せてくれるのか」と簡潔に結ぶほうがよいでしょう。

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