書評Books 人知をはるかに超えた主の十字架

日本同盟基督教団 苫小牧福音教会 牧師
北海道聖書学院 講師
水草修治

『十字架は何を実現したのか―懲罰的代理の論理』
J・I・パッカー 著、長島 勝 訳

B6判 1,300 円+税
いのちのことば社

主イエスの十字架の死は何を実現したのか。この問いに対して、史上三つの説明がされてきた。第一は道徳的感化説。神は罪人を拒んでいないが、人が心をかたくなにしている。人は、十字架のイエスの愛の模範に感化されて神と和解する。人間は原罪がないのでイエスの模範に倣うことができる。これはソッツィーニ以来の合理主義者の教えである。
第二は劇的説。イエスは十字架の死と復活によって悪魔に対する勝利を収め、人を暗闇の圧制から解放した。この説は勝利者なる王キリストを強調する半面、外にある悪に力点を置くので、人間自身の罪の深刻さに対する認識が浅い。これはギリシャ教父の説明。
第三は懲罰的代理説。罪の中に死んでいた私たちは、悪魔の圧制下にあり、神の怒りの対象であった(エペソ2・1―3)。しかし、イエスは罪人の代理として神からの刑罰を受け、死と悪魔に勝利して三日目に復活した。十字架は一方では神の怒りに対処し、他方では人間に罪の赦しを与える。十字架の出来事の核心は懲罰的代理だが、これには十字架のイエスの道徳的感化(Ⅰペテロ2・24)と、悪魔の支配からの解放(コロサイ1・13)が伴う。これが宗教改革の聖書的贖罪論である。
合理主義者は、罪なき代理者に罰を科すいけにえの思想は野蛮だとか、イエス一人の一時的死が多数の永遠的死の代理となるのは不合理だなどと、懲罰的代理説を批判してきた。合理主義者に対して、近代の改革派神学は精緻な理論で反論してきた。パッカーは改革派神学を評価しつつも今一度聖書に立ち返る。聖書は、神の真理をモデルを用いて教えつつ、そこに神秘を残す。神のことは、人の理論では説明し尽くすことはできないからである。三位一体の教理に神秘が残るのと同様、十字架の教理にも神秘が残るのである。ここに神を畏れ愛するパッカーの神学の真骨頂がある。祈りをもって熟読されたい。「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」(エペソ3・19)ために。