特集 聖書のとおりにどう生きる? ナショナリズムに対抗するもの

二〇一七年 宗教改革五百周年記念事業 特命大使 マルゴット・ケースマン

 

『なぜ〈平和主義〉に
こだわるのか』
マルゴット・ケースマン、
コンスタンティン・ヴェッカー 編
木戸衛一 訳
定価1,500円+税

私が人生で初めて日本を訪れたのは、沖縄での平和会議に出席するためでした。幾多の創造性を駆使して新しい方向への問題提起をするこの島の平和運動に、大変心を動かされたものです。そして、憲法第九条で、国の交戦権を放棄し、陸海空軍を保有しないことを守る日本の政治に興味を持ちました。当時は一九八〇年代、ドイツでも大規模な平和運動があった時期です。一九八一年、ボンのホーフガルテンで、北大西洋条約機構(NATO)の軍備拡張に反対して数十万人がデモを行い、私も夢中で現場にいました。世界教会協議会(WCC)は一九八三年、「正義・平和・被造物保全のための公会議的プロセス」を開始しました。ドイツの諸教会が、熱心に関わりました。ヴィッテンベルクでは剣が鋤に打ち直され、東独の若者は、この預言書の文言をジャケットに縫い付けました。ミカ書が国家に挑んだのです。それが平和革命への道のりで、一九八九年の「壁」崩壊に導きました。
私たちはそのうえ、日本の平和運動と繋がっていると感じました。ハノーファーの州教会監督として、私は広島市長から、八月六日の平和祈念式典に招待されました。この訪日の際にも、平和への証しがいかにはっきりしているか印象的でした。広島・長崎の犠牲者を前にして「平和への証し」が当然であることと、第一次・第二次世界大戦の犠牲者に照らして、ドイツの平和への取り組みが当然であることは、本来同じなのです。

今はどうでしょう? ドイツでは平和主義は、うぶで時代遅れだと鼻先で笑われています。コンスタンティン・ヴェッカーと私がこの本を編集したのは、「平和主義こそ目下の急務だ!」と一石を投じたかったからです。あるイベントで、コンスタンティンの伴奏で私が本書に収められたテキストを読むと、会場は静まり返りました。それがまさに現実であることを、聴衆がいっぺんに意識したからです。一九〇五年にノーベル平和賞を受賞したベルタ・フォン・ズットナーが言っていることなどは、今日の言葉でもあり得ます。
ヨーロッパではナショナリズムが高まっています。クリミア半島をめぐる戦争は、緊迫の度を増しています。コソヴォ派兵に始まり、長いことドイツは、「ヒンドゥークシ山脈で防衛しなければならない」という格言に従って参戦しています。武器輸出は絶え間なく増え、サウジアラビアやカタールのような国にさえ行われています。このナショナリズムの復活と全般的な軍備拡大は、日本でも、いえアジア全体で見て取れます。……

それに対抗できるのは、国境を越えた平和運動しかないと思われます。権力政治や経済的利益は、平和とか紛争解決の平和的手段などに有用性を認めません。戦争を始める人間たちが、どうやってそれを再び止めることができるのか一抹の考えも持っていないという彼らの単純さに、私は繰り返し衝撃を受けています。二〇〇三年のイラク戦争を見れば、トニー・ブレアがまさにそのことを証明しています。戦争がいかに即座に始められ、終わるのが難しく、いかに長引くか、私たちは知っています。戦争のトラウマが克服され、真に平和が栄えることができるまで、三世代もかかるのです。ドイツの最近の研究によれば、戦争の加害者・被害者としての恐ろしい体験を論じられるようになったのは、ようやく孫の世代になってからとのことです。
二〇一二年、欧州連合(EU)はノーベル平和賞を受賞しました。何世紀もの間、戦い合ってきた諸国民が、今日では平和のうちに共に生きているのですから、受賞は妥当だと思います。その一方で、目下ヨーロッパは、再びナショナリスティックな個別利害のうちに解体しかねず、この敬意を台無しにしようとしています。難民がヨーロッパの境界で非人間的な状況で生きなければならず、何の支援も得られず、受け入れも拒まれており、ヨーロッパは人権を踏みにじっているからです。人種差別主義者や年端のいかないネオナチが発言の場を与えられて暴言を吐き、排外主義を綱領に掲げる政党が選挙で勝利しています。このことはショッキングで気分を重くしますが、逆に平和運動の存在が喫緊に必要であることを示しています。
私は、平和への自分の取り組みをキリスト者としての任務だと思っています。マタイの福音書で、イエスは「平和をつくる者は幸いです」と述べています(五・九)。……

この本が日本で出版されることを私は嬉しく思い、木戸衛一さんの翻訳のご努力に感謝します。ヨーロッパで生まれた平和運動のテキストが、日本の人々にも感銘を与えてくれることを私は確信しています。(「日本語版に寄せて」一部抜粋)