連載 ふり返る祈り 第17回 弱いときにこそ強い

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。
コリント人への手紙第二 12章9節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、私は繰り返しあなたの助けが必要です。私は相変わらず同じようなことで悩み、自分の弱さを痛感する場面に遭遇します。昨日は解決を与えられたと思ったら、今日も再び悩むのです。どうぞ日ごとの魂の糧をもって、私をお養いください。そして私の弱さの中であなたと出会い、あなたの力を経験することができますようにお支えください。

人生には自分の得意とする場面だけではありません。苦手で苦痛を感じる場面が少なくないと思います。常に人と協調してやっていきたい人は、人と対決するのが苦痛になるでしょう。戦うことを生きがいとする人は、穏やかに他人と協調していくことに大きなストレスを感じるかもしれません。
私たちは周りの人々に強い人、弱い人とレッテルを貼りがちですが、強い人とはどういう人のことでしょう。どんな場面であってもくじけることなく、前向きの姿勢を保てる人。他者にはっきりもの言うことができて、問題が起こっても果敢にその問題に取り組む人。弱い人はその反対です。すぐにくじけて悩みます。いつまでもクヨクヨします。すぐに悲観的な思いに陥ります。はっきりと人にもの言うことができません。

私たちは、弱い人ではなく強い人になりたいと願います。でも本当は強い人、弱い人と単純に分けられないのかもしれません。強そうに見えても実際には弱い部分を持つ人が少なくありません。強そうに見える政治家、ワンマン社長、勇敢な軍人の中には、自分の弱さを必死に隠している人がいるかもしれません。確信に満ちているように見える教会の牧師が、疑いと戦っているかもしれません。よく自画自賛をする人は、そうやって自分を励ましているのでしょう。
哲学者の鷲田清一氏は、パスカルの「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている」という言葉をある新聞記事で引用していました。自分の弱さを認めている人は、かえってその弱さに振り回されることが少ないということです。けれども、自分の弱さを知るとはどういうことでしょうか。数学に弱いとかスピーチに弱いとかは人間性とあまり関係ないので冷静に処理できるかもしれませんが、自分の性格的なことなど人間性にかかわる弱さはクールに取り扱えません。いろいろな場面で自分の弱さを見せつけられ、自分が情けなく、恥ずかしく、恐れを抱きます。弱さを本当に知るとはつらいことなのです。

信仰とは、自分の弱さを痛感する中で神様に頼ろうとすることです。弱さがなければ、人間というものはもともと不信仰なものですから、神様に祈ることもないかもしれません。自分の弱さというのは、環境が変わっても、周りの人が替わっても、依然くっついてくるものです。だからこそ、私たちは神に頼り続け、祈り続けるのです。
パウロは肉体のとげを持っていたと言います。具体的にとげが何だったか記されていませんが、てんかんであったとか、くる病であったとか、弱視だったのではないか、あるいはうつ病であったかもしれないと言われます。いずれにせよ、このとげは彼を悩ませ、これさえなければもっと自由に働き、もっと力強く伝道できるのにと思うようなものでした。私も自分自身に照らし合わせて考えます。自分が今のように小心者でなければ、もっと指導力があったならば、もっと社交的に未知の人とかかわっていければ、さらに伝道が進み、良き牧会がなされるだろうと何度思ったことでしょう。パウロは自分のとげが取り去られるようにと、何度も祈りました。しかしそのとげは、なくなることはありませんでした。けれども代わりに、そのマイナスをチャラにするほどの力を与えると神に言われたのです。

牧師仲間でいわゆる弱い人がいました。すぐに落ち込み、体調を崩し、悩むのです。けれども彼が語るとき、輝くような恵みの説教をし、多くの人々を励ましたのです。パウロも自分の弱さのただ中で神に助けられる経験をしました。またその弱さゆえに、彼には常に助け手が与えられていました。弱さゆえに悩みますが、何とか乗り越えていきます。パウロはとげがあったからあれだけの大きなことができたのかもしれません。神の視点から見れば私たちの弱さは単に取り去るべきものではなく、神に頼るための賜物であり、神の力を経験するためのツールなのだと思います。