恵みの軌跡 第三回 受洗、専門分野の決定、結婚

柏木 哲夫
一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。

教会に通い出してから洗礼を受けるまでに、私は五年かかりました。救われ方は実に様々です。初めて出席した伝道集会で洗礼を決断する人もあれば、私のように五年、私の知人のように三十年もかかる人もあります。
私がイエス・キリストを救い主として受け入れたのは二十六歳の時でした。医学部を卒業した年でもありました。中之島公会堂で開かれた大きな伝道集会で、講師の牧師が、信仰の決断をお勧めくださったとき、迷いなく手を挙げました。コップいっぱいになった水が、素晴らしいメッセージという一滴の水であふれたという感じでした。五年間かけて、私のたましいというコップに、福音という水が少しずつたまり、コップいっぱいになり、表面張力で山なりに盛り上がり、一滴の水であふれたという感じでした。神の存在をこころで理解したというより、たましいで悟ったという感じでした。手を挙げたとき、何ともいえない胸の高鳴りを覚えました。

洗礼式は一九六四年十一月二十二日、みぞれが降るとても寒い日でした。私が属するメノナイト・ブレザレン教団は当時、浸礼(全身を水に浸す洗礼)が普通でした。教団のキャンプ場の近くを流れる川に全身を浸すのです。普通、牧師の手助けですぐに水から上がるのですが、私はできるだけ長く水中にいたいと思いました。長くいると、私の罪がたくさん、水とともに流れ去るように思ったからです。牧師にできるだけ長く水の中にいたいので、すぐに上げないでほしいと妙なお願いをしました。牧師は快く承知してくださり、私は四十七秒間水中にいました。事情を話しておいた友人が測ってくれたのです。この水中滞在時間の記録はまだ破られていません。水から上がったときの感覚は今でもはっきりと覚えています。みぞれまじりのとても寒い日でしたが、私は寒さを全然感じないばかりか、体中がホカホカと暖かかったのです。洗礼は新しく生まれる第二の誕生日であると言われますが、まさに、「生まれ変わった」という感じでした。

多くの方々が私の受洗を喜んでくださいましたが、特に私に教会へ行くことを強く勧めたESSの友人T君と現在の妻(当時はOさん)が喜んでくれました。OさんもESSのメンバーでした。
三人はよい友達で、ESSの活動をいっしょにしました。私とOさんは最初単なるクラブの友人でしたが、クラブ活動をいっしょにしていくうちに、お互いに異性として意識し始めました。そして、将来の結婚を考えるようになりました。あとでわかったことですが、Oさんは、私が受洗しなかったら結婚は考えられないと思っていたそうです。
私の受洗を契機として結婚の話が進み、私たちは一九六六年に結婚しました。知り合ってから七年が経過していました。「長かった春」と言えるかもしれません。私二十七歳、家内二十六歳でした。
私が医学部を卒業したのが一九六五年ですから、三年間に人生でとても大切な三つのスタート、信仰生活、職業生活、結婚生活のスタートをしたことになります。

話を学生時代に戻します。自分が将来何科の医者になるかは、医学生にとってとても大切な決断です。自分の専門を決める前にすべての分野の講義を聴き、すべての診療科で実習をします。多くの学生は臨床医学を目指しますが、少数ですが、基礎医学を専攻する学生も存在します。私は初めから臨床に進むことは決めていましたから、基礎か臨床かというジレンマはありませんでした。
講義と実習が進んでいくうちに、同じ医学といっても科によってずいぶん違うことを実感するようになりました。整形外科と眼科とでは仕事の内容がずいぶん違います。

整形外科での実習はとても印象的でした。私は三十七歳の女性患者を担当することになりました。股関節の手術のため、入院中でした。離婚して、仕事をしながら、三人のお子さんを育てておられました。痛みがひどくなり、手術が必要と言われたのですが、入院中、会社の仕事をどうするか、三人の子どもの世話をだれに頼むか、ぎりぎりの生活なので入院費用をどうするかなど、多くの問題があることを私にポツポツと話されました。股関節の手術という医学的問題の背後に、多くの社会・経済的な問題があることがわかりました。
手術の日が来ました。術者は教授で、股関節の手術では彼の右に出る者はいないと言われるほどの腕を持つ人でした。患者さんは全身麻酔で意識がなく、全身は緑色の手術着に覆われており、股関節の部分だけが丸く開いていました。手術の準備が整った段階で教授が手術室に入ってきて、シャーカッセン(レントゲン写真を見る際に用いる、蛍光灯等の発光を備えたディスプレイ機器)のレントゲン写真を一瞬見て、すぐに手術が始まりました。噂にたがわず、見事なメスさばきで手術は短時間に終わりました。

患者さんは手術の成功を喜び、教授に感謝して退院されました。教授はよい手術をし、患者さんは喜んだ……それでいいではないか……。しかし、私にはこのような医学の領域は向いていない、と思いました。おそらく教授は、患者さんの様々な社会・経済的課題を知らなかったと思います。彼の関心は、レントゲンに映った股関節であり、どのように病変部にメスを進めるかであったと思います。それはそれでとても大切な働きであり、重要な分野なのでしょうが、私には向いていないと思いました。
教養時代に読んだ書物の影響だったのかもしれません。ずっと読み続けていた聖書や教会でのメッセージの影響もあったのかもしれません。理由はともかくとして、私の中には「人間を丸ごと診たい」という強い思いがありました。身体的存在であるばかりでなく、人間は精神的存在でもあり、社会的存在でもあります。加えて、たましいをもった霊的存在でもあるのです。人間を丸ごと、全人的に診たいという思いが私を、精神科という専門分野に進ませたのであろうと思っています。