ふり返る祈り 第13回 百倍の実

「種を蒔く人が種まきに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、……枯れてしまった。また、別の種はいばらの真ん中に落ち……いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」ルカの福音書8章5―8節

斉藤 善樹(さいとう・よしき)
自分は本物のクリスチャンではないのではないかといつも悩んできた三代目の牧師。
最近ようやく祈りの大切さが分かってきた未熟者。なのに東京聖書学院教授、同学院教会、下山口キリスト教会牧師。

神様、人生には「今までの苦労が水の泡」ということが幾度あることでしょう。 それまでの努力や労苦がすべて無駄になったような思いになるのです。 数日や数週間の労苦ならまだよいでしょう。 何年もかけたものが実を結ばないとなると、私たちは絶望感に襲われます。でも、実を結ばせるのはあなたです。私たちの務めは、あなたが蒔かれた恵みの種を良い地で守ることです。どうぞ諦めないで日ごとのあなたの恵みの種を受け取り、 あなたが成長させてくださることを信頼して今日も歩ませてください。 主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

農業は苦労の多い仕事です。地面を耕し、種を蒔き、一所懸命に育てても、台風や干ばつ、冷害などですべてがダメになってしまうことがあります。農作物は生き物です。一度枯らしたら元に戻りません。
主イエスの有名な「種蒔きのたとえ」では、四つの場所に蒔いた種のうち、三つまでもがダメになってしまいます。道端に落ちた種、石地に落ちた種、いばらの地に落ちた種。それらはすぐに鳥に食べられたり、芽が出ても枯れたり、生えても結局実を結ばなかったりします。

このたとえ話には、私たちの人生と重なることがあるようです。私たちはさまざまな分野において実を結ぶための努力をします。けれども、すべての努力が報われることはありません。何日もかけて苦労したのにダメになってしまうというのはまだよいほうです。何年も何十年も労苦を重ねてきたものが実を結ばないとなると、私たちはどれほど失望することでしょう。
何年もかけて研究開発してきた商品に致命的な欠陥が見つかって、すべてが無駄になったという研究員がいるかもしれません。努力して経営してきたお店が倒産したという事業者もいるでしょう。一生懸命にやってきた受験勉強の成果が出せなかったという受験生は少なくないでしょう。学校の先生は、自分の働いた成果がすぐに見られるわけではありません。何年もかけて生徒を育てます。けれども、すべてが自分の期待どおりにいくわけではありません。
さらに、自分が手塩にかけて育ててきたわが子の成長過程で、「こんなはずではなかった」と失望するような経験をする母親、父親がいるでしょう。何年も伝道をしたけれど、期待するような結実を見られなかったという失意の牧師もいるかもしれません。

そうなのです。三つの種は実を結べなかったのです。厳しい現実は私たちの前にあり、私たちは幾度も失望を経験するのです。けれども、良い土地に落ちた種が百倍もの実を結んだというのも主イエスが示す現実です。ダメになってしまった三つの種を差し引いても、あり余るような桁違いの豊かな実です。
これは、神が私たちの生涯において実を結ばせてくださるという希望です。私たちは常に、ここに希望を置くことができます。
「種を蒔く人」とは神様のこと、地面は私たちです。神は世界を創造されたあと、造りっぱなしで放っておかれる方ではありません。お造りになった世界で実が結ばれるようにと種を蒔いておられます。ダメになってしまう種があったとしても、神は蒔くのをおやめになりません。蒔き続けてくださいます。

種には、その内に実を実らせる可能性が秘められています。地面の役割は、しっかりと種を受け止め、種を守り、その時が来るまで忍耐をもって待つことです。せっかく植えた種を、なかなか芽を出さないからといって、土を掘り返してはダメになってしまいます。
その種が無駄になったように見えても、諦める必要はありません。種蒔きは終わっていないからです。もしかしたら、種の成長を妨げるものがあるかもしれません。雑草やいばらは神様の力をいただいて取り除きましょう。
農夫は毎日蒔き続けています。神は諦めないで私の生涯に、私の家族に、私たちの教会に、日ごとに蒔き続けておられます。だから私たちも、諦める必要はありません。