恵みの軌跡 第二回 充たされない空間

柏木 哲夫
一九六五年、大阪大学医学部卒業。ワシントン大学に留学し、アメリカ精神医学の研修を積む。一九七二年に帰国し、淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。翌年日本で初めてのホスピスプログラムをスタート。一九九四年日米医学功労賞、一九九八年朝日社会福祉賞、二〇〇四年保健文化賞を受賞。日本メノナイト ブレザレン石橋キリスト教会会員。
大学合格後の一年間は「浪人時代の反動」ともいうべき一年でした。当時の医学部は合計六年間で、初めの二年間は「教養」と呼ばれ、医学の専門的な授業はありませんでした。後の四年間は「専門」で医学の専門的授業と「ポリクリ」と呼ばれる実習がありました。その後一年間、インターンの後、国家試験を受けて、通れば一人前の医者になれるわけです。
教養時代の授業は、正直、あまり面白くありませんでした。世界史や化学は高校の延長のようで、授業に出る気がしませんでした。授業をさぼっては、友人と喫茶店で長時間しゃべったり、ダンスのレッスンを受けたり、マージャンをしたりして時間をつぶしました。タバコもおぼえました。課外活動としてESSに入りました。英語はもともと好きだったので、昼休みにテキストを使って、五―六人の仲間と英語で会話するのは結構楽しかったし、夏休みの合宿では、先輩の見事な英語力に刺激を受けました。振り返って、何よりよかったのは、他学部の学生と知り合えたということです。教会へ行くことを強く勧めてくれた友人も私の妻もESSのメンバーでした。

二年生になって、無性に医学の勉強がしたくなり、図書館へ通うようになりました。しかし、内科や外科の本を見ても、基礎知識がないので、理解出来ませんでした。唯一わかったのは精神医学関係の書物でした。フロイトの「夢の分析」や「性格障害」、「患者の心理」などの書物は医学の専門知識がなくても読めるので、かなり沢山読みました。この読書を通じて、私は、医学の中に「精神医学」という分野があることを知りました。小学生の頃に「医者になる」と思った時の私の頭には、漫然と内科、外科、小児科などがイメージとしてあっただけで、もちろん、精神科の存在などは全然知りませんでした。

精神医学関係の書物を読みながら、相変わらず、友人との「遊び」にもかなりの時間を割いていました。
二年生の半ばころから、私のこころに、ある変化が起こりました。それは「空しさ」の自覚です。友人と遊んでいても、読書をしていても、なんとなく、むなしいのです。こころが充たされないのです。こころのどこかに「充たされない空間」がある、というような感じです。二年生のクリスマスのシーズンでした。大学から駅へ向かう道の電柱に「クリスマス祝会」のポスターが貼られているのが目に留まりました。行ってみようと思いました。ESSの友人が勧めてくれていたことと、現在の妻がその教会に通っており、彼女も勧めてくれていたことが、私の背中を押してくれたのだと思います。

生まれて初めて教会の敷居をまたぎました。アメリカからの宣教師がたどたどしい日本語でキリストの誕生について語っていました。詳しい話の内容は覚えていませんが、彼がとても熱心に、心を込めて語っていた、その姿勢に私は感動しました。もう一つ感動したのは、祝会が終わってからの人々の対応でした。初めての私を心から歓迎してくださる笑顔がとても印象的でした。特に印象的だったのは当時七十代だったおばあさんです。「よく、いらっしゃいましたね。教会へ来てくださって、とてもうれしいです」と、満面に笑みをたたえて言ってくださいました。祝会が終わった帰り道、私のこころは満たされていました。後になって聞いたのですが「人には神でなければ充たすことができない空間がある」という言葉があるそうです。私が感じていた「充たされない空間」というのは、まさにこのような空間かもしれないと思いました。宣教師をあれほど熱心にさせるものは何なのか、あのおばあさんの笑顔のもとは何なのか……それを探ってやろう……そんな不遜な動機で私の教会通いが始まりました。

私はもともと「計画人間」で、計画を立てて、物事を進めていくことに親和性を持っています。聖書を読むこともかなり、計画的に始めました。一日これほど読めば、一か月でこれほど進むので、新約聖書を読破するのにこれほどかかる……といった計画を立てるのです。もちろんきっちり計画通りにはいかないのですが、計画を立てるとなんとなく落ち着くのです。
かなり期待して新約聖書のマタイによる福音書から読み始めたのですが、初めから裏切られました。人の名前の羅列から始まっていました。その次に処女マリアからイエスが誕生するという記事が続きます。聖書を読み進めていく中で、私がどうしても納得できなかったのは数々の奇蹟です。「奇蹟につまずく」というのは多くの求道者が経験することだと思いますが、私も例外ではありませんでした。奇跡のことがわからないと宣教師の先生に尋ねると「神様がおられ、神様は奇蹟を起こされる力をもっておられるのです」という答えが返ってきました。神の存在を信じるかどうかが信仰の原点であるという、いわば、当たり前のことを、先生は繰り返し、説かれました。

もう一つ納得できなかったのが「罪」の問題です。聖書が教える罪は私たちが「罪」という言葉から連想するものとはかなり異なるということを、聖書を読み進め、メッセージを聴いているうちに少しづつ、わかってきました。聖書は「皆、罪の下にある」(ローマ3・9)といいます。私たちは「法律的な罪」というように、罪を限定的にとらえますが、聖書は、極言すれば、人間の存在そのものが罪であるととらえます。このことに関して、宣教師のある日のメッセージがとても印象的でした。彼は「罪のことを英語ではSINと言います。Ⅰ(私)が真ん中、中心、にありますね。私が中心という生き方、考え方が罪なのです」と言いました。私は妙に納得しました。自己中心が罪なら、私は罪びとです、と素直に認めることができます。問題はこの自己中心性からは人間の力では脱却できないということです。このメッセージは私を洗礼に導く大切なきっかけになりました。