ねえちゃん、大事にしいや。 最終回 大きな衝撃

一九五五年生まれ。看護専門学校卒業後、病院勤務を経て、八〇年より釜ヶ崎でケースワーカーを務める。著書に『ねえちゃん、ごくろうさん』(キリスト新聞社)、『いつもの街かどで』(いのちのことば社)、『いのちを育む』(共著、中央出版社)、『地下足袋の詩』(東方出版)等がある。

看護師を辞め、日雇い労働者の街・大阪釜ヶ崎でケースワーカーとして働き始めて三十六年。そこで出会った人たちから教えられたことを綴った『ねえちゃん、大事にしいや。』が七月に出版される。その一部を三回に分けて掲載!

私が生まれてはじめて釜ヶ崎の存在を知ったのは、二十三歳のときでした。一番衝撃を受けたのは、一年間に約三百人の人が路上で死亡するという現実でした。二十四歳から釜ヶ崎で働き始め、街を巡回しながら、衰弱している人や息を吸うのも精いっぱいと感じる人に出会ってきました。本人の気持ちを聞いて、救急車を呼んだこともあります。救急車で運ばれた後、お見舞いに行ったら、すぐに亡くなった人もありました。集中治療室で二、三日がんばったけど息を引きとった人などにも数多く出会いました。
入院できて、元気になっていく人たちもあります。元気になっていく姿を見るのは、とてもうれしいことです。退院の日が決まると自分のことのように喜び、「迎えに行くから」と約束し、その日を心待ちにしていました。
退院予定日の四、五日前に体調を崩す人や病状が急変する人があり、退院できなくなった人もありました。
そして、退院は喜びではなく、恐怖であることに気づきました。退院した次の日から日雇い労働に従事しないと生活できません。退院したら、しばらくのんびりするという、ゆとりもありません。病みあがりの身体で重労働をすることで、すぐに病気が再発してしまう可能性もあります。
入院した人にとって退院が喜びとなるようなことはないだろうか、路上で亡くなる人が、ひとりでもふたりでも畳の上で亡くなる方法はないだろうか、と真剣に考えました。
そして、家を持つことで解決できないだろうかと思いました。家といっても三畳、四畳半という部屋です。日本には生活保護があるのに、家のない人は法律の網の目からもれてしまうので受けることができません。今は新たな法律ができて、幾分そうではなくなりましたが。長い間、日雇い労働で社会に貢献しても、家がなく住所不定では、収入がなくなったとき、野宿を強いられます。野宿をしたら、心も身体も痛めてしまいます。
入院した人の中には、退院するときには部屋を用意し、生活保護の手続きをした人もありました。帰る場所がある、しばらく働かなくても生活できることで、退院が喜びになりました。

野宿を強いられている人たちは現金もなく、収入もないので家を借りることは不可能です。私は、アパート生活を望んでいる人にお金を貸すというやりかたをしました。借りた分は生活保護を受けるようになったら、分割で返してもらいます。六十五歳以上の高齢者や、病気や障がいで働けないという人たちを中心にやってきました。
そして、多くの労働者がアパートで暮らせることを喜びました。ある人は部屋に入って布団を敷いたとたん、倒れるように布団に入りました。
「道で死なんですんだ!」
「布団の上で寝られる! 天国や」
私が思った以上の喜びでした。一般社会からは「ホームレス」と一言に言われてしまいますが、人が野宿するつらさは想像してもわからないと思います。
「外で寝たら、夜、一睡もでけへん。長く続くと考える力がなくなり、もうどうでもいいと思ってしまうんや」
「寒い時期など、このまま寝入ってしまったら、凍死するのではと不安がおそってきて、怖くて眠れへん」
段ボールを敷き、毛布一枚では寒くてしかたがないと思います。食べることは生命を維持するのに欠かせないことですが、労働者はこう言います。
「食べることは、毎日炊き出しに並んで何とかしのげるけど、夜、寝られへんのは、どうにもでけへん」
長年、重労働を担って身体を酷使してきた人たちが野宿したら、体力は低下してしまいます。私が一番心を痛めたのは、中高生が、熟睡していそうな人にガソリンをまいて、火をつけて逃げると聞いたときでした。衰弱している人は、火がついていることに気づくのが遅く、服を脱ぐことができずに焼け死んだり、気がつくのが早くても重症の火傷を負ってしまい、その後の治療に苦しむ人もありました。また、川に放り投げられ、死亡した人もいました。
そのような出来事を見聞きしているうちに、ひとりでも早く畳の上にと願うようになりました。
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