しあわせな看取り 果樹園の丘の訪問看護ステーションから 第14回 お騒がせの孝子さん

孝子さん(仮名)は甲状腺がんを患った七十歳の女性です。脳梗塞で右半身麻痺となった車椅子生活の旦那様がおられましたが、孝子さんががんに倒れてからはお二人での生活が難しくなり、ご夫婦でレストハウスに入居されました。がんに対する恐怖はあっても、ひょうきんで愉快な孝子さんの、泣き笑いのレストハウスでの生活は六か月半に及びました。

孝子さんは過去に甲状腺がんの手術を二度受けておられましたが、三度目の再発では手術はもうできないとのことでした。次は核治療を大学病院で受ける予定でしたが、孝子さんはもう入院はしたくないと、治療中止を決断されました。治療しなければ今後どんな経過をたどることになるのか、レストハウスでお世話が可能なのか心配でしたので、大学病院の受診に同行し主治医に聞きました。
先生は、今の状態から見て、気道や食道の閉塞が起こることはないでしょう、という返事でしたので、少し安心しました。そしてその後の医療的フォローを地域の医師にお願いすることにしました。
孝子さんの頚の腫瘍は、顎や喉の運動を妨げるため、飲み物を誤嚥しやすく、そのためトロミ剤を使ってお茶や味噌汁などすべての水分にトロミをつけて食べていただきました。嚥下の専門家にも診ていただき、飲み込みのこつや嚥下体操などを指導され、徐々にトロミなしでも上手に飲み込めるようになり、おかげで最後の入院でモルヒネ注射によって眠る直前まで自力で食べることができました。

孝子さんはときどき意識を失って倒れました。諸検査をしましたが、結局この発作は迷走神経反射によるもので、頚の腫瘍も関係していることがわかりました。発作が起こるとすぐ横にして、足を挙上して休ませると、数分で血圧も意識も戻るのですが、何ともいえないだるさや吐き気がしばらく残ります。孝子さんは不安のあまりパニックになるので、その間だれかが側について孝子さんの胸をさすり続けなければなりませんでした。首の腫瘍は次第に大きくなって最後はこぶし大にまでなりました。発作と同時に腫瘍周囲の頚や顎の痛みも伴うようになり、強い痛み止めが処方されました。とはいえ、発作が落ち着くと、ケロッともとの元気な孝子さんに戻り、動き回るので、そんな痛み止めがほんとうに必要なのか疑わしくなることもありました。痛みというより、腫瘍による頚の拘束感に対する不安と孝子さんのもがきが、苦痛を大きくしていたのではないかと思ったりします。

私は孝子さんのことをよく冗談でこう呼んでいました。「お騒がせの孝子さん、『待て』ができない孝子さん」。私の知る孝子さんは、良きにつけ悪きにつけ即行動の人でした。周りの人々が孝子さんに振り回されながら、「もう孝子さんいい加減にしてよ!」と言いながら、孝子さんを愛さずにはいられない不思議な魅力を持つ方でした。
「孝子さん、もがかないで神様にゆだねるのよ」と言うと、「そんなわかりきったこと言わないでよ!」と叱られました。でも「本当のところ、私には神様がわからない。だからゆだねられないのよ。ゆだねるということがどういうことかわからない」とも正直におっしゃっていました。

レストハウスにおられた間は、毎晩一緒に祈りました。二人の祈りはいつしか旦那様やヘルパーたちも巻き込んでの夜の祈りとなりました。そして「ハレルヤ!」と賛美しました。あるときは辛くてベッドに横になったまま、あるときは喜びが抑えきれずに踊りだし、そんな小さな感謝の日々でした。
残念ながら孝子さんの最期はレストハウスで看取ることができなかったのですが、入院してからも彼女を愛する旧友たちに付き添われ、孝子さんはとうとうすべてを神様にゆだねました。彼女の胸に手を当てて「孝子さん、ここに平安がある?」と聞きましたら深くうなずかれました。彼女の甥である牧師の詩編の朗読にもひとつひとつうなずいて耳を傾けられ、その日は孝子さんの永遠の命を確信する魂の回復の時であったと感じました。

最期はモルヒネの注射で眠り、ご家族の見守るなか、召されて行きました。その日はちょうど余市でSLが走った日で、医師が臨終を宣言したと同時に、外では列車の汽笛が鳴ったとお聞きしました。孝子さんの天国行きの列車です。