ねぇちゃん、大事にしいや。全3回 第1回 ネパールに行く前に

入佐明美

一九五五年生まれ。看護専門学校卒業後、病院勤務を経て、八〇年より釜ヶ崎でケースワーカーを務める。著書に『ねえちゃん、ごくろうさん』(キリスト新聞社)、『いつもの街かどで』(いのちのことば社)、『いのちを育む』(共著、中央出版社)、『地下足袋の詩』(東方出版)等がある。

看護師を辞め、日雇い労働者の街・大阪釜ヶ崎でケースワーカーとして働き始めて三十六年。そこで出会った人たちから教えられたことを綴った『ねえちゃん、大事にしいや。』が七月に出版される。その一部を三回に分けて掲載!

岩村先生は当日、日本基督教団浪花教会にある日本キリスト教海外医療協力会の関西事務局で話し合いの場を設けてくださいました。私は岩村先生の顔をしっかり見て、言葉に耳を傾けました。
「ぜひ、ネパールに行ってほしいのですが、その前に……。日本にも結核で苦しんでいる人たちがいっぱいいるんですよ。じつは、私もそのことを最近知ったのです」
私は、先生からどんな言葉が出てくるのか、緊張して耳をそばたてました。
「将来はネパールに行ってほしいのですが、その前に、大阪の『釜ヶ崎』でボランティアのケースワーカーとして働いてみませんか」
「釜ヶ崎?」
鹿児島生まれの私は「釜ヶ崎」という名前だけは知っています。ネパールや結核と、どう関係があるのだろうか。きょとんとしている私に、岩村先生はゆっくりと話されました。
「釜ヶ崎では、十人に一人が結核なんです」
結核という病は、過去の病気と思っていました。テレビや映画で見たことはありましたが、今の時代に十人に一人という数は理解できません。さらにびっくりして耳を疑ったのは次の言葉です。
「釜ヶ崎では、一年間に約三百人の人たちが、路上で亡くなるのです」
人が亡くなるのは、畳の上かベッドの上で、家族が集まって、見守られながら、息を引きとるのだと思っていました。コンクリートの上で亡くなるのは、なぜなのか。しかも、ひとりやふたりではなく、約三百人とは? 私は心の中で、なぜ? とくり返していました。思いきって、先生に訴えるような口調で言いました。
「先生! どうしてこんな豊かな日本の中に、そういう所があるんですか」
先生は悲しそうなまなざしで、遠くを見つめておられました。
「どこの国でも、そうなんですけど……。繁栄の裏では犠牲になる人たちがいるんですよね……」
「……」
「入佐さん。まず釜ヶ崎で二、三年働いてみませんか。そのあと、ネパールに行きましょう」
「二、三年働いたら、必ずネパールに行けるんですよね」
私は念を押しました。ネパールに行けるのなら、どんなことでも引き受けようと、自分に強く言い聞かせました。釜ヶ崎で働くことは、ネパールに行くための訓練だと受けとめたのです。
話し合いが終わり、夕方、姫路の自宅に着きました。身体が疲れきっていました。すぐにネパールに行けないということが、残念でたまりませんでした。しかし、それ以上に心が重かったのは、日本に釜ヶ崎のような所があることをまったく知らなかったことです。結核や栄養失調で苦しんでいる人は、日本以外のことだと思っていました。人生の最後は布団の上で迎えるものだとも思っていました。冬の寒いとき、病気や栄養失調などで苦しい思いをしながら、路上でひとりぼっちで息を引きとる人がいると想像しただけで胸がつぶれそうでした。

釜ヶ崎は大阪市西成区の北側にあります。広さは、〇・六二平方キロメートル。その中に、約二~三万人の日雇い労働者が住んでいると言われています(一九八〇年ごろのこと)。全国の寄せ場の中で一番大きい所です。釜ヶ崎の近くには、通天閣、天王寺、ミナミなどの繁華街があり、交通もJR大阪環状線「新今宮」、南海電鉄「新今宮」「南霞町」、市営地下鉄「動物園前」に囲まれ、便利な所です。
生まれてはじめて釜ヶ崎を案内していただいたとき、緊張で歩くだけで精いっぱいでした。街で会う人のほとんどが男性です。作業服を来ている人が多いと思いました。あいさつしようと心の中でがんばってみるのですが、言葉が出てこないのです。うつむいて歩き続けました。
―ここで、働くなんて絶対に無理だ。
という思いでいっぱいになりました。ケースワーカーという仕事は人の相談にのることなのに、あいさつすらできない自分に無力感を抱きました。