Opus Dei オペラな日々 第11回 一曲いかがでしょうか?

稲垣俊也
オペラ歌手(二期会会員)、バプテスト連盟音楽伝道者

稲垣俊也 私たちは音楽を一曲二曲と数えます。私が奉職している東京基督神学校の講義で「もし音楽を一曲二曲と呼ぶのでなければ、あなたはどう呼びますか」と質問したところ、なかなかおもしろい答えが返ってきました。

 「一花二花」「一不思議二不思議」……。私たちが何気なく使っている「一曲」という表現は、日本人独特の音楽に対する思いの表れではないでしょうか。

ワンカーブ?

 英語圏の方に「“一曲”歌ってください=Please sing one curve?」なんて言ったら、きょとんとされてしまうことでしょう。「一曲」は、国によって様々なことばで表現されています。

 イタリアでは一曲のことを「ウナ ロマンツァ(Una romanza)」と呼びます。“ロマンツァ”とは、そう、ロマンス(恋物語)のことです。「一恋愛二恋愛」といったところでしょうか。歌うこと、食べること、愛することに命をかける彼ららしい表現ではないかと思います。

 また、特にオペラの独唱曲一曲のことを「ウナアリア(Una Aria)」と呼んでいます。アリアはエアー(air)、空気のことです。私たちは普段、空気の存在を意識して生きているわけではありません。しかし空気がなければ十分と生きることができません。人にとって歌は空気のような存在、あまりに近しいため、そのありがたさには気がつかないものですが、生きるためには必要不可欠なものです。

 どの「一曲」も、表現のちがいこそあれ、かけがえのないもの、という思いがこめられているように感じます。

絶壁の下の家

 「一曲」ということばを聞くと、神様のもとにいかに歩み行くべきかを説いたC・S・ルイスの「絶壁の下の家」という喩え話を連想します。

 山の絶壁の下に家がある場合、その家にたどり着くためには、山の尾根づたいに曲がっていかなければなりません。絶壁の頂からそのまま飛び降りれば、すぐさま家に着くことができましょうが、生きてたどり着くことはできないでしょう。迂回して曲がっていけば、目的の家からは遠くなってしまいます。しかし遠くなることが、実は確実に家に近づくことになるのです。

 オペラ、たとえば「蝶々夫人」の物語の筋を説明するとします。おそらくものの五分もあれば、このドラマをくまなく説明することができるでしょう。五分もあればこと足りることをなんだかんだで二時間も三時間も“騒ぎ立てる”のはどうしたことだろうか……とお思いになるかもしれません。

 しかし、いかがでしょうか。わかっていると思われていることの中にも、案外大切なことを見過ごしてしまっていることがあるのではないでしょうか。

 目的の家にたどり着く途中で、山道のかたわらに咲いている野の花を手にとってみると、こんな小さな命にも、大自然の“美”と“摂理”があることを感じずにはいられません。頬をくすぐるそよ風に聞き耳を立ててみると、この空気(アリア)が自分の心とからだを育み養ってくれているのだ、という感動がこみ上げてきます。

 すぐさま目的にたどり着くことも可能かもしれませんが、道草をすることで、日常に埋もれたすばらしいことを発見することができるのです。目的の家に一気に飛び降りてしまうと、かけがえのない“私自身”をがけから落とし、見失ってしまうかもしれません。

一曲いかがでしょうか?

 曲がって迂回することの大切さは、洋の東西を問いません。日本の古の人々も「急がば回れ」と言っています。音楽はまさしくそのことを私たちに語ってくれています。

 「結果や評価をすぐさま求めることより、まあここらでちょっと落ち着いて、一曲いかがかな?」

 人間と動物は、決定的に違うところがひとつあります。それは、動物は大人になったら「遊ばない」のですが、人間は大人になっても「遊ぶ」のです。犬でもライオンでも母親が子どもとじゃれている光景を見ますが、あれは母親が子どもを「遊んであげている」のであって、大人同士ではけっして遊ぶことはありません。

 遊ぶこと、道草を食うことは、人であることの最大の証なのです。さあ、「一曲」奏でながら、人として命を授かり生かされていることのすばらしさを謳(うた)ってみようではありませんか。