I Love Music,I Love Jesus. 「音楽も神学も本格的に」熱血歌手の願い

ジョシュア佐佐木さん
ジャパン・ミッション・ミュージック・スクール学長

ジョシュア佐佐木さん

interview 1

 東京は上野にあるジャパン・ミッション・ミュージック・スクール(JMMS)の学長を務めるジョシュア佐佐木氏は、真剣なまなざしと情熱的な姿勢に賛美という武器をたずさえ、「神様に愛されていることを一秒でも早く、一人でも多くの人に伝えたい」と熱く語る。空手少年だった十七歳のとき腰を痛め、空手を失う。その後、けんかと暴走に明け暮れる毎日を送った。洗礼を受けたのもこのころだった。

 「実はそのときは、イエス・キリストが救い主であるとか、そういうことはいっさい知りませんでした。英語でロックを歌いたいと、教会の英会話学校に行き、ダニエル宣教師と出会ったのです。彼は優しさと力強さを兼ね備えたジェントルマンで、彼のようになりたいと、わけもわからず洗礼を受けました。だから洗礼の後も自堕落な生活を続けてましたね」。

 しかし、高校卒業後「自堕落」な生活に終止符を打ち、ロック歌手を目指したいと、四国の高松から上京し大学へ入学した。

 「自分の好きなイタリア人のオペラ歌手が来日したとき、『聞く』と『自分の声』というイタリア語だけを調べて、自分の歌を聞いてもらいに会いに行きました。後で知ったことですが、自分が伝えたのは『俺の歌を聞け!』と、命令形だったのです。それでも卒業後にイタリア留学の道が開け、その方に師事し、そこでオペラ歌手として活動することもできました」。

 四年間のイタリア留学の後、さらに経験を積むため渡米することに。渡米前、一九九三年に一時帰国した際に転機は訪れた。甲子園で開かれた伝道集会で、賛美のソリストとして抜擢されたのだ。

 「そこで人生を変える奇蹟が起こったのです。舞台に上がる直前、ふと空を見上げた瞬間、衝撃が走り、ただ涙があふれたのです。泣いている自分が恥ずかしかったのですが、涙は止まりませんでした。そして、『神様、ごめんなさい』との言葉がついて出たのです」。

 この一言で、すべてが変わったという。何よりも歌に対する気持ちが変わった、と。

 「それまでは、だれよりも高く評価されるために歌っていました。それが歌を通して神様をあかししていきたいという思いに変わったのです。歌いながら、今までにない平安が心を満たしていました」。

 その後渡米するも、教会の音楽主事として働くようになる。教会に呼ばれ賛美をする機会が増えてくると、次第に、アメリカの教会と日本の教会のギャップを目の当たりにするようになった。

 「アメリカの成長している教会では、すばらしい音楽奉仕者がいて、若い人たちは若い人たちに、年輩の方たちは彼らに合う賛美で主を礼拝していました。演奏も一流の音楽家に引けを取らないものでした。それにひきかえ日本では、賛美に対する論争ばかりで、演奏のレベルが高いとは言い難いものでした」。

 このころ、日本で、宣教のための音楽学校の設立に携わってほしいという依頼が舞い込んでくる。ロックで音楽の世界に入り、クラシックで経験を積んだ自分が、若者と年輩の方を、教会と教会を、クリスチャンとクリスチャンではない方たちを音楽でつなぐ架け橋になりたい、そんな思いを胸に帰国し、JMMSの学長に就任した。JMMSは「音楽を本格的に、神学も本格的に」という理念を持つ。牧師の片腕となって働けるような霊性と、一般のミュージシャンと肩を並べて演奏のできる技術を養うことを、ジョシュア氏は教育方針として掲げる。

 「日本のクリスチャン人口は一%にも満たないと言われています。けれどもゴスペルを通して救われた人、外国で救われた人など、日本の一般的な教会とは違う文化の中でキリストを信じた人はたくさんいて、そういった人がなかなか教会になじめないだけではないかと思っています。日本の教会で洗練された賛美がなされ、それを聞いてまた教会に来たいと思う人が増えればいいですね。そのためには、ただの音楽愛好家ではなく、魂の救いにも情熱をかたむける音楽奉仕者を育てていかなくてはいけないと、強く感じています」。

 つきつめたらまっしぐら。目の前にあることを一生懸命やっていたら、思いがけない道が開かれてきた。ジョシュア氏は、日本の賛美に革命を起こしたいと語る。

 また、日本のクリスチャン音楽家たちのネットワークを作り、日本の音楽業界に「クリスチャン・ミュージック」というジャンルを確立したいと夢を持つ。

 十七歳で洗礼を受ける前から、すでに神様はジョシュア氏のそばにいてくださった。空手も、けんかも、ロックも、オペラも、すべてはこれから神様の計画をなすための準備だったのだ。

 「そう、勝負はこれから!」