98%クリスチャンの国から1%クリスチャンの国に来て 第10回 チミティル・ヴェセル <後編>

アマリア・ネクラエシュ
日本ルーテル教団新潟のぞみルーテル教会員

私が小さいころから、母方の祖父母(四十代後半~五十代前半だったでしょうか)は、自分たちの死の準備をしていました。葬儀に必要なものを買って屋根裏に置き、母に葬儀の希望について話していました。幼い私は、葬儀の話を聞くたびに怒りました。「なぜ、今その話をするの」と。彼らの死を想像するだけで、悲しくなるからでした。
ところが彼らは、いつも「死は恐れるべきことではなくて、喜ぶことだ」と言いました。
この世界でよく働いた後、父なる神さまのところへ行って、この世で苦労しただけの報酬をもらえると知っていたからです。祖母は私に、「神さまに正しく従って生きようとしたなら、死んだ後、恵み深い神さまに会うことは、何も怖くない」と教えてくれました。祖父も同じでした。
祖父母は長生きです。祖父は去年、八十三歳で亡くなりました。彼が死んだとき、私はそばにいてあげられなくて寂しかったですが、そばにいた母によると、最期まで死を恐れず平和のうちに神さまに自分の魂を返したそうです。祖母は現在、八十二歳です。考え方は若いころと変わりません。
ところで祖母は、もう一つのことを教えてくれました。
皆さん、左の手のひらを見てください。そこに、Мの文字が読めませんか。ルーマニア語に「Moarte」という言葉があります。それは、「死」という意味で、頭文字はМです。祖母は、「神さまが、私たちがいつか死ぬことを忘れないように手のひらに刻みつけられた」と教えてくれました。死を恐れさせるためではなく、いつか神さまの前で審判を受けることを忘れずに、正しく生き続けるためです。できる限り、神さまに与えられた使命を行って生きるならば、死ぬことは怖くなくなるのでしょう。恵み深い神さまに欠けた部分を補われ、よくがんばった部分を「お疲れさま」と言われて、報酬をいただけると知っているからです。
祖母は素朴な田舎の女性で、ほかの国の「死」という言葉がMで始まるかどうかを考えてみたこともなかったと思います。しかし私にとって、今も、これからも、祖母の教えは現実です。私は、祖母のような信仰から、ハッピーな墓地〝チミティル・ヴェセル〟が生まれたのだと思います。
クリスチャンは、チミティル・ヴェセルに埋葬されている人たちみたいに、死を恐れず、むしろ安心と希望をもって、死に向き合うことが大切なのではないかと思うのです。