高校生のためのエッセイ
永遠志向 第9回 「信仰があつい人って?」

荒井恵理也
高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)スタッフ

 高校生が「信仰の熱い人」と言う時には、いくつかの特徴がある気がします。目立つ人、人前で司会や証しをした人、音楽やスポーツができる人、真剣に、もしくは熱心に話す人。

 「クリスチャン+上記のどれか=信仰の熱い人」こんな方程式が高校生の一部にはあるような気がしています。

 それにしても、そもそも信仰が熱いって何でしょう? だれかが定義できるものなのだろうか? って思います。

 信仰は強いかどうか、熱く燃やされているかどうか考えることはあっても、信仰が健全か不健全かとはあまり考えないかもしれません。

 何らかの非日常的なことによって燃やされた信仰は燃やされ続けなければならないと思っているし、それが冷めていくことはかなりの恐怖で、さらには冷めていくことに罪悪感を持つこともあります。でも一時的に燃やされたものは冷めるのが自然だし、それが信仰の健全さとはほとんど関係ないことは、不健全に陥る前に気をつけるべきです。

 「派手で目立つ人=熱いクリスチャン」になってしまうと、それは完全に福音ではありません。「永遠」へと向かおうとしながら、「永遠」でないものを追いかけているという皮肉な話です。

 「ほとんどのクリスチャンは、礼拝を守る、デボーションをする、あかしをするなどを目標として掲げます。しかしそれらは、現実の生活の中でみことばを実践しつつ日々直面する課題や問題を乗り越えながら成長に向かうためには十分な目標とは言えません(本文)。」

 たしかに長く祈ることや、たくさんの人に伝道することは、成熟したクリスチャンのあかしのように思われていますよね。けれども、実は、信仰が成熟することによって見えてくるものって、自分の罪なんです。クリスチャンとして生きれば生きるほど自分の罪が見えてきて、悔い改めをせざるを得なくなって、それを繰り返しながら生きていくようになる気がしています。楽しくない話になったけれど、「人生日々是悔い改め」── こちらのほうが健全な信仰に近い気がします。