駆出しおとんの「親父修行」 第3回 ほめて、ほめて伸ばす

大嶋重徳
KGK(キリスト者学生会)主事

娘が生まれて退院するとき、ボクは、妻の母に質問した。
「子育てのために、何をしたらいいですか?」 
すると、お義母さんは、「裕香がいちばん喜ぶことをしてあげることじゃない?」。
たしかに、お皿を洗うことや洗濯、赤ちゃんをお風呂に入れるなど、何かを決めてやるのもいいだろうが、そのうち「俺は皿洗っているんだから」「俺だって、洗濯やってるだろ」という気持ちになってくるだろう。
でも、「裕香が喜ぶことをする」と言われると、子育てについて妻と話し、今、父親として、夫として何をすべきなのかをその日、その日で判断しないといけない。「これやっているからいいだろ」戦法は全く使えない。
なかなか厳しいが、実際的なアドバイスだ。だが、何をすればボクの妻は喜ぶのだろうか。
「俺が何をしたらうれしい?」
「うーん……。話を聞いて」
「…えっ?」
「あと、いろいろほめて。うん、多分、それが一番頑張れるかなぁ」
「……へぇ~。そんなもん? 了解」
翌週、お義母さんが家に戻り、夫婦二人での子育てが始まった。激変する二人の生活。子ども中心に生活が回り始める。娘を寝かしつけながら、一緒に眠りこける妻。
じっと見ていると、娘の顔が少しゆがむ。
「あっ、泣きそう」そして、泣き声をあげるために、すっと小さな息を吸い込む。その瞬間、妻が目を覚ます。泣く娘に、「はいはいはい、お腹空いたの?」と語りかける。
全身全霊で、娘に集中している妻。娘が泣こうがわめこうが寝続けるボク。この違いは何? 神秘的なものを感じながら、妻を見る。
そんな日がしばらく続いていると、「ねえ、ほめて」と妻に言われた。
「うん?」そういえば、約束した。
「わたしさぁ、家で一人で香澄とだけ話しているでしょ。もちろんそれはそれで、とてつもなく可愛いんだけど。でも……大人のだれとも話していないと、自分は社会のなんの役にも立っていないんじゃないかなあと思ってくるんだよね。わたし、結構頑張っているよね?」
「うん、頑張っているよ」
「じゃあ、もっとほめてほしいな」
子育ては、どちらかというと、「親たる者はやって当たり前」感に満ちている。でも、子どもと一日一緒にいたらよく分かる。やって当たり前ということは絶対にない。
「すごい、お父さん最高!」と何回でも言ってほしくなる。「さすが、お父さんだねー、お風呂に入れるの上手! 香澄も気持ちよさそうじゃーん」
そんなふうに言ってもらうと、「そう? やっぱりぃ?」と何度でもお風呂に入れたくなる。
「俺だって仕事で大変なんだ!」「金は俺が外で稼いで来てるんだ! 家のことはお前がやれ!」昔の父親はそう言っていたかもしれない。確かに外での仕事ももちろん大変だ。でも結果が出ると評価を受ける。結果が悪くて凹むこともある。そんな一つひとつで頑張れたり、頑張れなかったりする。それは、子育てだってそうだ。妻だってそうだ。
ボクらの父なる神様も、ほめてくださる神だ。
「よくやった。よい忠実なしもべだ」
良いしもべではないことは、自分がいちばん知っている。でも、逃げずに、自分のできる精一杯を懸命にやり続けているとき、神様は「今日もよくやったね」とほめてくださる。だから頑張れる。その愛に応えたいと思える。そして一日の終りに祈るとき、愚痴も思い煩いも、涙で何を言えているのか分からないようなことばもじっと聞いてくださる。
「話を聞いてくださる神」「ほめてくださる神」そんな神に似せて造られた自分が、〝親父になっていく修行”で、大切なことは、妻をほめ、子どもをほめ、自分もほめること。
そしてできた、大嶋家家訓。
「やって当たり前をつくらない。ほめて、ほめて伸ばす」
できないことを指摘するよりも、できたことをほめ合うことを大切にしよう。夫婦でほめ合うことができなかったら、子どもたちのいいところをほめることなんてできないはず。
今でも妻は、家に帰ってリビングでくつろぐボクを見て、「四十代に近づいてますます渋くなった。すてき」と本気で言ってくれる。おかげで子どもたちは、「お父さんは本気でかっこいい」と思ってくれている。
そして、「お母さんもキレイだよねー。お父さんもっと言ってあげなよ」と言う息子。なかなかやるな。