誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第5回  認知症高齢者のサポートと教会

井上貴詞
東京基督教大学助教

「地域の高齢者と共に生きる」

ある教会に、「うちのおばあちゃんは、ボケてしまって大変ご迷惑をかけるので、もう教会へは行かせないようにします」と突然に電話が入りました。礼拝や祈?会に熱心に欠かさずに出席されていた婦人のご家族からでした。
認知症には、物忘れが病的に悪化したり、時間や場所がわからなくなったり、計算や判断ができなくなるなどの「中核的症状」と、極度の不安や脅迫症状、うつ状態、幻覚、妄想、昼夜逆転、攻撃的言動、収集癖などの「周辺症状」があり、疾病の種類やその時の心理状態やおかれた環境によって多彩な状態が出現します。介護する家族は、そうした症状や理解し難い行動に振り回され、大きなストレスを抱えます(増加している虐待被害者の多くは認知症高齢者です)。また、病気の進行していく過程においては、本人自身が自分という存在を喪失していく脅威にさらされて苦しみます。
個々に異なる認知症の人のケアや治療には、医療や福祉の専門的な助けが必要であると同時に、ちょっとしたサポートがあれば地域での暮らしを継続できる人も大勢います。認知症高齢者は、二〇一五年には二百五十万人、二〇二五年には三百五十三万人になると公表されており、認知症の人のケアは、国民的な課題である共に今後だれもが直面する身近な問題です。

善意のご家族への応答

善意のご家族から冒頭のような申し出があった場合、「いいえ、○○さんは教会ではまったく何の問題もございませんので大丈夫ですよ。ご心配なく、教会にお送りください」という応答はいかがでしょうか。間違いではありませんが、家族を怒らせたり、傷つけたりする場合もあります。周囲が当惑するような認知症の行動は、しばしば身近で親身にお世話をしている家族に対して現れます。懸命に介護しているのに、汚れた下着をタンスに隠されたり、お金を盗(と)られたと疑いの目を向けられたりします。家族は、老親(ろうしん)を情けなく思ったり、うまく世話ができずに自責の念に駆られたりしています。そんなところに「教会では大丈夫です」などと言われたら、家族は「こちらの配慮を無視した」「侮辱された」とすら感じてしまいます。
こうした場合は、焦って解決策を即答せずに、まずはその善意を受け止め、後日訪問して家族の戸惑いや無力感、葛藤などにじっくり耳を傾け、共感し、その労をねぎらうというコミュニケーションが必要です。その際に、介護の経験者や介護の専門家と一緒に訪問できると、独りよがりの対応にならずに済み、ご本人が教会とのつながりを継続できる方法を見出すことができます。

教会に距離をおくご家族の場合

日頃から教会に対して批判的であり、老親が認知症になった機会にとばかりに、教会から老親を引き離そうとするご家族もおられます。お世話をしている家族からこのような態度に出られるとなかなか厄介ですが、本人に信仰を守りたい、教会に行きたいという想いがある間は簡単に引き下がるわけにもいきません(実際、ご家族の厚い壁に阻まれて来られなくなった教会員が亡くなられ、葬式終了後にその事実を知らされたというショッキングな例もあります)。
この場合には、せめて面会だけでも許可を求め、祈りつつ、時間をかけてご家族と建設的な関係を築き、本人の信仰生活が全うできるような関わり方を模索するのが望ましいといえます。介護の専門家や、時として人権問題が絡むような場合には法律の専門家の助言を受けておくことも有益です。認知症があっても、ふつうの人と同じように、自分のことを自分で決めることができるように尊重されることが「尊厳の保持」となり、認知症に伴う様々な周辺症状の軽減・予防につながります。ご家族も不安と闘っています。そのような不安を受け止め、ご家族との関係を築くことができれば、教会に対しての偏見や誤解を解く好機にもなります。

教会が認知症の人のサポーターになろう

厚生労働省は、二〇〇五年から「認知症を知り地域をつくる十カ年」構想の一環として、「認知症サポーター一〇〇万人キャラバン」を実施し、現在すでに一七〇万人を超える認知症サポーターが全国で養成されています。今こそ、クリスチャンの出番ではないでしょうか。教会の共同体のあり様は、地域社会の魅力的なモデルになる可能性を秘めています。教会が認知症の人と共に歩み、支えあうサポーターの拠点になれたら、その教会は地域社会が一目置く存在となるでしょう。
「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた」(使徒の働き2章46―47節)