苦難のとき、神はどこにおられるのか 無形財産

ツインタワー
村山 正則
単立 シャローム福音教会 会員

 平成6年11月16日に奇跡的な骨髄移植をしてから、はや、まる7年が経過して8年目に入ろうとしている。一生を賭けた新しい仕事に着手する直前に見舞われた白血病で、夢ははかなく崩れさった。当時まだ信仰をもっていなかった私は、別に自分の不幸を誰のせいでもないと思っていた。運が悪かったとさえも思わず、単に体の血液のバランスが崩れたからと考え、客観的に自分の病を淡々と受け入れられた。 元来自然科学が好きで、この地球上のすべての現象には、必ず人間が考えうる理屈がつけられると思っていた。

 人間の体といえど人類が発見した化学元素からなり、体が朽ち果てればすべて無に帰して、天国もなければ地獄も有り得ないと神の存在を否定する態度であった。機能的には動物とまったく同じ人間がたまたま考える機能を有していたために動物とは異なる道を歩んできただけで、天国と地獄とは人間が勝手に考え出した物、要するに弱者の心のよりどころという存在でしかないと思っていたのだ。

 現に日本における一般的な宗教は、盆暮れに仏壇に手を合わせる程度で、日常的に、幸福な来世を願い、仏典を年に一回でも読んだり、お経を唱えるなどといったことはあまり聞いたことがない。つまり日本は、元々自然に恵まれ、衣食住の心配がなく、単に人生の幕切れの際にしか宗教に対し、必要性を感じない。それは盆暮れなどの死者に畏敬の念を示すという行事が形式的かつ習慣的に行われているという点にも現れているのではないだろうか。そこにはおのずと神という存在はなく、まして人間同士の「愛」の概念はない。私は、そのような宗教に興味はなかった。

 ところが、療養中に目にした科学雑誌「ニュートン」によると、近年著名な英国のホーキング博士が唱えたビッグバン説では、百五十億年以上も前に宇宙は、砂粒にも満たない無に近い物質がまばたきくらいの極めて短い時間内に大爆発を起こし、爆発は光に近い速度で今なお膨らみ続けているという。これを見て驚愕を覚えたのだった。まさにこの光景は、二千年以上も前に書かれた聖書の創世記一章に詳述されているからだ。このビッグバン説はまだ新しく、現代最高の頭脳が作り出した説であり、現在では主流になっている。

 我々の住むこのおだやかで美しく優しい地球がただ単に静止していれば無機的な存在として納得もいくが、赤道上では時速千六百キロメートルの速度で自転し、時速十万六千キロという超高速で太陽のまわりを五十億年以上も運動を続けているという事実を考えると、これはもう人知をはるかに超えた想像もできない力というものを実感する。こうして私はすんなりと全宇宙を支配する神の存在を確信した。白鳥座にあると予想されるブラックホールのように神そのものは目に見えないが、必ず神は存在しなければ辻褄が合わないということになる。

 そして私は病気治療を通じてキリスト教に触れ、神を信ずることになった。教会では、神は愛であると教えられる。神はそのひとり子を賜るほど人を愛するという。私は、またここで考えてしまうのだ。それほど愛にあふれる神は地球上で人類に甚大な被害をもたらす地震、旱魃、洪水などの天変地異をおこすのであろうかと。あるいは戦争、テロにより人類は不幸になる。人はまた地位や財力のためにお互い殺し合うのか。これが私にとって大きな矛盾であった。これでどうして神の愛を信じろというのであろうかと。

 しかし聖書を読む間に、この矛盾も解決していった。つまり天変地異による犠牲者の発生は人災によるものが多い。戦争やいがみあい、ねたみはすべて自己中心から引き起こされるものだ。それ以上に神からの賜物は、はるかに大きい。この世に生まれてきたこと自体神に感謝せねばならない。そうした中にあっても自分のできることを精一杯行っていくことが、生まれてきたことの意義でもあろう。

 私は病気治療経過のなかで、体力が半減し、そして財力も半減どころかほとんどなくなってしまったが、それなりの生活は維持でき、目に見えないもっと大切な財産を教会で得ることができた。それは自分の置かれている環境に感謝できるようになったことだ。しかしそれは現状に甘んじることではない。具体的な希望を持ち、他人との比較競争により、目に見える結果を目指す希望ではなく、自己の置かれている環境を感謝することにより、少しでも向上させたいという目に見えない希望を持つことであろう。

 受洗後六年間の自分の考え方の変化は、私が受けた教会の牧師また兄弟姉妹の愛あふれる交わりの結果であり、これ以上の感謝はない。