美しく生きる 美しく老いる たとい、外なる人が衰えても

片岡栄子
クリスチャン・ライフ成長研究会

人生にはふたつの大きな転機があります。それは、少年から成年へ、そして成年から老年へのふたつです。年齢によるというよりは、精神的、肉体的に人それぞれ違ってくるように思います。
体調がどうもおかしいからと受診したら、主治医から「原因は加齢です」と言われ、「え、私、カレー食べてませんけど」と言ったという友人の転機は、笑いで始まったことでしょう。電車で席をゆずられて当惑した友人もいました。
私の場合は、娘と映画を観に行ったときでした。「念願のシニア料金で観れる!」と、年齢を証明するための免許証を手に、チケット売り場に並びました。私の番になったとき、受付嬢は何もチェックせずに私にシニア料金のチケットを渡したのです。
えっ! 見ただけでわかるの? なんで? なんで? と、情けないことに、しばらくスクリーンに集中できませんでした。
いざとなると、こんな心境になるものなのですね。
私たちは、若さこそすべて、老いは極力避けるべきものといった情報に、日々取り囲まれています。はたして本当にそうでしょうか。若さにしがみつく必要があるでしょうか。

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四十代のころ、同世代の夫婦数組とともに、トゥルニエ読書会(工藤信夫先生指導)で、『老いの意味』(ポール・トゥルニエ著、ヨルダン社)をじっくり読み、老年期とは新たに人生の意味を見出す、新しい開花のときであると学びました。あれから二十年、仲間たちはそれぞれに素敵な年を重ねています。そして私も、年を重ねることを、本当に楽しみにしていたひとりです。
若いころは、だれもが昇ること、得ること、活動することへ突き動かされてきました。何かをていねいにしたくても、忙しく、慌ただしく、夫はよく「ジョウロで一つひとつ水をあげたいのに、ホースで花に水をあげているような気がする」と言っていました。
「時間がない」というのが、その人の有用性の証明のように感じ、スケジュール帳が埋まっていると安心といった心境、疲れも当たり前の現役時代。そこからの解放です。
もてなしに忙しくする姉マルタと、イエスのことばに耳をかたむけていた妹マリヤの話を複雑な思いで聞いていたのは、私だけでしょうか(ルカ一〇章参照)。
マリヤのようにゆっくり、主の足元に座れればどんなにいいかと思いつつ、活動への誘惑に負けてしまう。同じく四十代後半で読み始めたヘンリ・ナウエンの著書『イエスの御名で』(あめんどう)の中で、「年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?」とのことばに出会って、影響を受けました。年を重ねるとは、クェーカー教徒の言う「ソウル・メーキング」に励むことのできるとき、神をよく知り、人格を磨き、イエスの似姿に変えられるよう、いっそう努力できるときだと思ったのです。

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さて、年を重ねるのにちょっと潔くなかった私でしたが、もうこれは納得するしかないと思ったのは、「バアバ、バアバ」と甘えてくる孫たちの登場でした。
自分の子育て期は少女期の振り返りとなったように、孫との時間は、人生最良のとき、子育て期の再来でもあります。孫たちと、絵本を早口ではなくゆっくり読み、やわらかに野菜を煮たり、すっかり大人の家になっていたわが家に、小さなキッチンを作ったり、おもちゃ箱を用意したりと、あの忙しすぎた時代には、とてもできなかった、でも本当はやってあげたかったことを孫たちとできるのは、「バアバの恵み」と思っています。

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婚約前から、結婚・出産・子育て・夫婦のこと、さまざまな時期にかかわって霊的な指導をしてくださったハンス・ビュルキ先生が、「栄子、日常の小さなことの中に、主を発見する女性になりなさい」と、宿題をくださいました。それから、リビングにみことばを思いめぐらす椅子を用意しました。「静まりの椅子」と呼んでいます。
家族は当時、ちょうどよい物置き場と勘違いし、私はというとシートベルトが必要だわと思うほど、ちょっとしたことでサッと立ち上がって動き出すしまつでした。
ところが今では、サッと立たなくなりました。その椅子に座り、ゆっくりみことばを読み、書き物をするのが恵みのときとなってます。
「たとい外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされる」とは、年を重ねてその深みがわかってくるみことばです。
年を重ねるとは、今までの得ること、昇ること、追求する生活から、階段を下り、得ることよりは手放す生活を始めること、何も予定のない日々を、主とともに、そして身近な人々との暮らしを大切にしていくことではないでしょうか。
今年、そんな日々を暮らす記録をと、五年日記をはじめました。十年日記に手が出なかったのも、年のせいかもしれません。
そして、毎日毎日をていねいに、そこにいてくださる主を意識しながら暮らしてみたいと思っています。
「ほほえみながら後の日を待つ」
(箴言三一・二五)