福祉を通して地域に福音を 第3回 傍らで寄り添うこと


佐々木炎

 今回は、認知症になった六十代の女性との関わりから、私が教えられたことを分かち合いたいと思います。

 彼女はご主人と二人暮らしで、ご主人に介護されています。しかし彼女は、お風呂に入ることを嫌がったり、トイレ介助を拒んだりするほか、一日中「盗まれた(と思い込んでいる)もの」を探すのです。ご主人も高齢で、喘息と腰痛の持病があるため、とても苦労していました。

 徘徊の心配もあって、ご主人は夜寝るときに、妻の手首と自分の手首をひもで結び、妻が動き出せば、すぐわかるようにしていました。

 昼間だけ施設で過ごすデイサービスに出かけても、彼女は職員がいつも傍らにいないと不安な表情を見せ、落ち着かなくなってしまいます。

 ある日、私が牧師を務める教会で行っているデイサービスで、別な女性が「昨夜は考え事をして眠れなかった」と言ってベッドに横になっていました。私は、認知症の彼女とともに、寝ている女性のそばに行き、手をさすりながら「昨夜はたいへんでしたね。ゆっくり休んでください」と語りかけました。そして認知症の女性に、寝ている女性をベッドサイドで見ていてほしいとお願いし、私は別な仕事をするために、その場を離れました。

 少ししてからベッドサイドに戻ると、傍らには誰もいません。あれっと思ってよく見ると、なんと彼女はベッドの中に入って添い寝をし、そっと子守歌を歌っていたのです。これには驚きましたが、近づいてみれば昨晩眠れなかった女性は、添い寝のぬくもりのなかで安心したように眠っていました。

 彼女は、私が思いもつかなかったほどに、ベッドで寝ている女性の不安や苦痛を感じ取り、体温を感じられる距離にまで寄り添ったのです。


 私はこの体験から、人は介護が必要な状態ではあっても、豊かな人間性を備えていることを教えられました。また、認知症の方々は何もできないのではなく、その人にしかできない役割があるのだということも。この世界に必要のない人などおらず、無駄な病気はなく、無駄な試練もないのです。そして何よりも、神さまという方は、この添い寝をした女性のような存在ではないかということが示されたのです。

 神さまは私たちの傍らに、この女性以上に近くにいてくださり、痛みや悩みを敏感に察知して、応えてくださるのです。しかも「温もりを感じることのできる距離」で、人生の同伴者として傍らに寄り添い続け、すべてが益となるようにしてくださる方であることを教えてもらいました。


 聖書に「私は光を造りだし、闇を創造した」(イザヤ四五・七)と書かれている箇所が気になっていたときに、上田紀行さんという人が書いた『かけがえのない人間』という本に出会いました。

 「一見ネガティブに見える挫折や苦しみは、神様があなたのために掘ってくれた穴ぼこです。その穴に落ちることで、自分が見える、人生が見える。その中でもがきながら、私たちは人生の宝に出会うのです」(『かけがえのない人間』講談社現代新書)。


 私たちは、一見ネガティブに見える挫折や苦しみ、自分の弱さや欠点という暗部、試練や病気などの闇を抱えています。でも神さまは、あえて私たちが穴ぼこに落ちて、悩みながら光を見出すために、また、人生の宝に出会うために、そして神さまに出会うために「穴ぼこ」をお与えになったのではないでしょうか。


 私は主イエスに温められ、人生が変えられました。私は青春時代に「誰もオレのことを心底理解してくれない」というやりきれない思いを抱いて、いわゆる「不良」になりました。

 でも、主イエスが崖から身を乗り出し、迷い出た一匹の羊をいのちがけで助けようとしている聖書の箇所を読んだ時に気づいたのです。心の寒さに震える私を、いのちをかけて捜し出し、丸ごと抱きかかえ温めてくれた温もり、「愛」を知り、その極みである十字架を受け入れることができました。私は主イエスの愛で温められて、今があるのです。


 私たちは「生老病死」を避けることができず、苦しみ悩み続ける存在です。それは神様がつくった穴ぼこかもしれません。そんな中で「温もりを感じることのできる距離」で、苦しみを感受し、聴いてくださる方、苦しみを共にし、一緒に耐えてくださる方がいたらどんなに力強いことでしょうか。

 人は温もりを通して安らかになる──、神さまは認知症の女性の姿を通して、その事実を私に見せてくれたのです。