福祉と福音
―弱さの福祉哲学 第9回 「親子になる」ということ(「養子」の思想)

木原活信
同志社大学社会学部教授

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます(ローマ8・15、傍点筆者)。

最近、児童養護施設の問題を取り上げたテレビドラマが話題となって、私のところにも関係者から意見を求められている。そのことにはここでは立ち入らないが、改めて、親子関係ということについて再認識させられている。
私たちの多くは、親子という関係を当たり前に捉えているが、親子関係は、「血」による関係だけではない。養子、児童養護施設、里子などで親子関係になる場合など、福祉的にいえば血縁を超えたさまざまな「親子」関係がある。周知のように、聖書の世界では「アバ」とは、アラム語で幼児の父への親しみを込めた「父ちゃん」「パパ」というような親しみの呼称である。
ところで、あるクリスチャンの方が、神に対して、親しみをもって「アバ、父」とはとても祈れないと悩んでおられた。この方は父親から虐待を受けて幼少期より児童養護施設で暮らし、「父」という呼称にそのイメージが重なってしまい、その人にとって「父」は、親しみではなく恐怖の対象でしかないというのである。
そうなると、実際に血のつながりのある肉親に恵まれなかった人は、神に対して「アバ、父」と、親しく呼びかけることはできないのであろうか。ここにこそ、その壁をも打ち破る福音の力が必要となる。

*冒頭で掲げた聖書の「子」とは、正確には「養子」(ヒュイオセシア)である。この場合「養子」というのは、「実子」および「奴隷(の子)」と対比される。実子の場合、通常「お父さん」と自然に呼べる親子の関係をもつはずであるが、奴隷(の子)の場合、どんな良い主人のもとで努力をしても、はじめから親子関係は存在せず、「子」と「父」の関係にはなれない。そこには、「恐怖」による支配と服従の関係しかない。
一方、養子はどうであろうか。児童福祉の観点でいう養子は、血のつながりを超えて社会的に「子どもになる」ことである。新しい家庭の養親と親子の契約を結ぶことになる。しかし、いくら法的に契約を結んだとしても「本当の」親子になるために、親は子に対する愛情が必要であり、一方で子どもは親に対する信頼を育まなければならない。
里子や養子などで家庭に引き取られた場合、その子と血のつながりはないが、「本当の親」である事実を伝える作業――「真実告知」が、どこかのタイミングで必要になる。多くの場合、血のつながりを超えて、「本当の」親子になっていくのであるが、なかにはずいぶん苦労する場合もある。その子が法的に実子と全く同じ立場、つまり「子である」権利をもっていると自覚しても、親に対して、心の底から「お父さん、お母さん」と呼べるかどうかは別問題だからである。つまり、「親子である」ことと「親子になる」ことは同義ではない。
くり返すが、養子が法的に実子と同じ立場だといくらわかっても、それは法的な権利であって、「アバ、父よ」と呼びうるような本当の親しい親子関係になることは保証していない。そこには、互いの関係作りが求められる。
養子を育てたある親の話であるが、その子と関係がぎくしゃくして、「お父さん」と呼ばなくなった子どもが、あるとき心の底から「お父さん、ありがとう」と言ってくれた、と喜んでおられた。ただその一言でこれまでの苦労は吹き飛び、溢れる涙が止まらなかったと述懐されていた。
さて、今日、我々は、完全な愛で我々を迎えてくださる神に、「アバ、父よ」と、呼びかけているだろうか。イエスは神の「ひとり子」、神の「実子」であるゆえに、地上で天上の神に親しく「アバ、父」と親密に呼びかけることができた。この父と子の深い関係こそが究極の理想である。ところで、我々も、本来は何の資格もないのに、一方的な神の恵みにより、聖霊の働きを通して神の「(養)子」とされ、「アバ、父」と呼ぶことができるというのが聖書の語る福音である。
たとえ先述した方のように「運悪く」地上の父に恵まれなかった場合にでも、地上の父を投影するのでなく、聖霊により、また「心の中でうめきながら、子にしていただくこと」(ローマ8・23)ができるというのである。つまり、イエスを通して、だれでも、心の底から親しみを込めて、「アバ、父よ」と呼びかけることができるという、この祝福こそが驚くべき福音の力なのである。