福祉と福音
―弱さの福祉哲学 第10回 「障害」と教会

木原活信
同志社大学社会学部教授

この連載を書いていて、うれしいことは、この拙稿を読んでくださった方々からの反響である。顔見知りでない方々からの便りもある。この場を借りて感謝したい。その中で、特に気になったのは、さまざまな障害を抱える当事者の方々やその家族、あるいはマイノリティーといわれている方々からの声である。

社会福祉の分野には、主に、貧困、児童、障害、高齢などがあり、そのうち、障害には、身体障害、知的障害、精神障害、そして近年では発達障害なども含めて、さまざまなものがある。
日本でも、それぞれに法律・制度があり、一定の施策がなされているが、障害者に対する根拠のない差別や偏見は依然根強い。ようやく国連の障害者権利条約を昨年十二月に批准して、国家としてもそれに向けた誠意ある対応を迫られることになった。その際、特に注意すべきは障害を持つ人々への「社会的排除」の問題である。
かつて精神障害を持つ人々に対して、東京大学の呉秀三氏(精神医学)が「わが国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」と嘆いたが、これは日本の社会を象徴している。残念ながら教会も例外ではない。
私に寄せられた声でも、次のようなことばがあり、心痛めた。「息子には、自閉症なので、教会には集うことができません」「性的マイノリティーであることを告白したら態度が豹変しました」「発達障害ゆえに、牧師や教会員に奇異に思われて交わりには入れてもらえません……」「表向きは優しい声はかけてもらえるが、でも深くかかわろうとすると実際は迷惑なようで……」これが事実とするなら、このことに対して、イエスは何と言われるだろうか。おそらく、その人たちを排除しようとする教会に対して、激しく叱責し、憤られるのではないだろうか。あるいは、そこで排除された人々のために共に涙を流されるのではないか。

カペナウムの四人の仲間と「中風の人」の記事を想起した。四人の仲間たちが、この「中風の人」をイエスのもとに連れてくるために、屋根をはがしたという記事である。「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした」(マルコ2・4)とある。当時のイスラエルの屋根は、現代の日本の家屋の形態とは違うからこういうことが可能だったなどと注解する立場もあるが、この描写は、やはり異例であり、奇異な行動であったから特筆すべきこととして記載されたのであろう。この記事を、今日教会はどう読むのか。
イエス自身と当事者を取り囲むこの四人の仲間たちのほかに、群衆、律法学者、が登場する。今日で言えば、群衆は会衆(信徒)や求道者であり、律法学者は牧師や神父(聖職者)、あるいは教会の役員、長老たちのことであろう。
ここで群衆は、意図せず、この「中風の人」がイエスに近づくことを妨げてしまっている。もちろん、彼らは「そんなことはしていない。私はただ、イエス様のことばをお聴きしたいだけ」と答えるであろう。そのとおりであろう。しかし、妨げるつもりはないが、そこには、苦しむ隣人への無関心、無理解、眼中に入れていない姿がある。
律法学者はどうであろうか。これはもっと罪が重い。状況を把握しておきながら、「その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った」(同6節)とあるように傍観者のように「座って」、眺め、自らは何も手は出さずへ理屈を考え、イエスを冷ややかな目で批判していたのである。これが宗教家であったとはなんと嘆かわしいことか。本来、この状況を理解し、苦しむ者の傍らにもっと近くいて、群衆を説得してでも、神(イエス)のもとへ誘う役割と責任を帯びているはずである。しかし、残念ながらその逆であった。
これに対してこの四人は、常識を省みず、イエスのもとへその友を連れてきた。イエスは、「彼らの信仰を見て」とあるように、この四人の情熱と愛を感じ、そして自らに向かってくる姿に礼拝の本質を感じ取り、喜んで迎え入れたのである。
私たちは律法学者のようにへ理屈を言っていないか。群衆のように結果的にじゃまするものになっていないか。自戒しつつ、教会の戸の外で排除されたマイノリティーといわれる人たち、さまざまな障害を持って苦しむ隣人たちの孤独と涙に目を向けたい。