沖縄から「平和」を考える キリストにある「真の愛国者」となるために

平和の礎
石黒 イサク
美濃ミッション 富田浜聖書教会 牧師

 「愛国」というとつい戦前の「皇国史観」のように感じてしまいますが、クリスチャンのみが正しい意味で、「真の愛国者」ではないでしょうか。そしてこれからもそうあり続けなければならないと思います。まずそのためには過去に対する正しい認識が必要です。

 歴史の正しい認識

 天皇崇拝や本土防衛のために沖縄を犠牲にした歴史を見れば、今まで私たちが教えられていたのは「歪んだ愛国思想」であって、国土や住民を愛するという「真の愛国」からかけ離れていたものであることが分かります。そして残念なのは、現在でもそれが尾を引いていることです。

 昨今話題になっている「歴史教科書の歪曲問題」のように、歴史から学ばず、自分の都合のいいように書き変えてしまうならば、「新しい」とは名ばかりの「二番煎じ」の愛国思想にしかなりません。沖縄の基地問題も、一般的には「日米安保のために、本土のために仕方がない」程度の感覚でしかとらえられていないのではないでしょうか。

 またそれと同様に日本のキリスト教界においても、戦前・戦中の神社参拝や天皇崇拝との妥協や迎合の歴史を正しく学び、悔改め、罪責告白をしていないために、現在再び、経済恐慌・モラル低下・無秩序の増大を理由に社会が右傾化していても、容認したり、無視したりしていないでしょうか。

 私たちキリスト者は、まず利害を優先することをやめ、正義・真理を認めて悔改め、へりくだりの心をもって前進しなければなりません。

 実状の把握

 私たちは高度情報化社会に住んでいながら、本当に必要なことは、なかなか知ることができません。正しい情報分析は、インフォーメーションを鵜呑みにするだけではなく、インテリジェンス(知恵)を働かせなければならないのです。沖縄問題についても、私たちはどれだけ理解しているでしょうか?

「米軍基地による実害、騒音・振動・多くの規制、米兵による犯罪などを受けている人々の基地移転・排除の願い」など。しかしもう一方では「基地によって生計を立てている多くの人たちの生活の問題」があり、基地を撤去さえすればすべて解決できるというような単純な問題ではありません。ただ「多数決で口封じする」という方法では、今までと同じことの繰返しです。また日本人独特の、熱しやすく冷めやすいことも、現地の方々に対する裏切り行為となってしまうことでしょう。現地の方々を愛して、祈り・とりなしをしているならば、流行に左右されたり、無関心で放置することなどはあり得ないのではないでしょうか。現地の声に耳を傾ける者になりたいと思います。
 
 痛みの理解と行動

 罪人である私たちは、とても自分勝手なもので、他人が片足を失ってもあまり痛みを感じませんが、自分が小指にかすり傷を負うと大騒ぎをします。また「知らない、関係を持ちたくない」と距離をおいていたかと思うと、自分に火の粉がかかってきた時には「自分ほど苦しんでいる者はなく、誰も理解してくれない」と嘆いたりするの  です。これはまさに「日頃から他人のために尽くしていないので、自分の窮地の時にも助けを求められない」という「蒔いた種の刈り取り」を表わしているのではないでしょうか。日本人は荒野の一軒家ではなく、すし詰め状態で住んでいながらも、残念ながら心は孤独で寂れているようです。

 教会でも、社会でも、いろいろなことに目を開き、献身的に行動している人はごく少数です。私たちはいつまでもお客さんで居続けてはなりません。特に虐げられたり、社会から疎外されている人たちに対する思いやりを忘れてはなりません。それが自分中心=エゴという罪から解放され、「愛」を与えられているキリスト者の行動ではないでしょうか?

 主のみ足跡をたどって

「我らの大祭司は、我らの弱きを思いやることあたわぬ者にあらず、罪を外にして、すべての事、我らと等しく試みられたまえり。」(ヘブル四・一五) 私たちの主イエス様は、しもべの形を取ってくださり、もっとも弱い・小さい者とともに住んでくださった御方です。

 新約聖書の書簡では常に、前半で教理・真理を説き、後半でその実践を奨励しています。みことばを実践していくためには、知識だけではなく聖霊によって与えられる、神の知恵と力が不可欠です。いかに暗く邪悪な時代にあっても、主にある者は「正義と光」を輝かせる者として立てられています。一人ひとりが主に従って歩むという基本に戻り、主の栄光を表わす者として用いられることを願っています。