時代を見る目 90 「そんなことじゃ社会に通用しないよ」

山崎 龍一
キリスト者学生会(KGK) 事務局長

 クリスチャン学生の進路ガイダンスなどで奉仕をすることがよくある。学生の質問には大きく分けて二種類ある。ひとつは「みこころ」をどのように知ることができるかという内容で、彼らが真剣に祈りつつ進路(就職)を求めていることが伝わってくる。もう一つ、とても多い質問は「(就職の)面接でクリスチャンと言ったら不利になりますか?」である。「クリスチャンは社会で通用しないと思うからです」と続く。さらに社会で「通用している」クリスチャンの先輩たちの証しにふれると、彼らは「例外的に成功した人の証し」を聞いたと思うようだ。「クリスチャンであることは面接で不利になることはないと思うよ……」と答えると、「ほっとしました」とうれしそうにうなずいてくれる。繰り返されるこの質問に、自分は本質的なことを答えていないと、あるときふと思わされた。もちろん「通用する」という意味をどのように学生が使っているか、吟味しなくてはならない。信仰が就職に有利か不利かを考えること自体に問題もある。しかし学生たちがそのような悩みをもっているという現実を受けとめ、彼らの側に立って考えてみたい。

 学生時代もしくは青年期は、ときに無謀であったり、未熟であったりする。軌道を外し、大人から見ると「非常識」だと感じることもある。問題はそこからだ。そんなときクリスチャンの先輩(大人)からの忠告の決めゼリフは「そんなことじゃ社会に通用しないよ!」である。これは本当に学生・青年のためを思っての言葉だと理解しているが、学生には「クリスチャンであるだけでは社会では不十分なのだよ」というメッセージと化してしまう。このようなことばは、彼らに教会よりも社会の方を大きく見せてしまう。それは教会の中で働く神さまが、社会では働いていないかのような誤解を生んでしまうのだ。信仰歴の長い学生ほど、この傾向が強いように思う。

 「社会で通用しない」というような、社会という枠組みから信仰者の歩みを意味づけるのではなく、信仰こそ社会で歩む祝福の基であり、世の中のできごとを信仰の目をもって受けとめて歩む祝福を、学生・青年に伝えたい。信仰により私たちの内側が成熟していくことが「この世」で生きる祝福の根源であり、福音を信じるだけで十分であり、その「福音に生きる」ことが人生の深い満足につながっていることを、学生・青年に語ってほしいと願っている。