時代を見る目 205 震災からのチャレンジ [1] 苦しむ者の視点

吉田 隆
日本キリスト改革派 仙台教会牧師
仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク代表

3・11から始まった出来事は、いったい何なのか。私たちはどこへ向かって行くのか。いまだにその全貌をつかむことはできない(事実、被災は終わっていない!)。しかし、あの日からのすべての出来事が、神によって何かの目的のために導かれて来ているということ、それだけは私にとって唯一確かなことである。
あの日から、私はいくつものことを学ばされてきた。それは、私たちに対するチャレンジである。まるで安心・安全な生活がいつまでも続いていくような錯覚に陥っていた私たちの信仰を揺り動かすような、私自身と教会が変わることを求めておられるように思う主イエスからのチャレンジである。
被災支援活動において宗教の違いは必ずしも問題にはならない。被災者にとっては、本当に助けてくれた人々が「善い人」だからである。主イエスが語られた「善いサマリヤ人」のたとえは、まさにこのことを教えていたのだということに、今さらながら気づかされた。サマリヤ人は、言うまでもなくユダヤ人とは違う異教徒であり異端者であったからだ。
瀕死のけが人を尻目にして通り過ぎていった祭司やレビ人たちを、仮にキリスト教の牧師や役員たちと考えてみよう。そして、後からやってきたサマリヤ人を仏教徒なり異端者と考えてみよう。それは正統を自負する私たちが想像したくないシナリオである。が、被災地ではそれが現実に起こる。
そこを通った人々の宗教や信仰の立場ではなく「だれが隣人になったか」が問題なのである。それは“倒れている人の視点”である。倒れている人にとっては、キリスト教徒であろうと仏教徒であろうと、関係ない。そして、イエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)。
“行いによって救われる”と言いたいのではない。そうではなく、私たちの主が誰の視点で物事を見ておられるかということである。主は、傷つき倒れている者の視点に立っておられる。その人もまた、主によって造られ愛されている存在だからである。この世にキリスト者として生きることは、自分の立場に閉じこもることを許さない。常に苦しむ者の視点に立つことが求められる。
それが、主イエスの心を心とするということなのだ。