時代を見る目 200 信仰の落とし穴 [2] 「信じる」とは

東後勝明
早稲田大学名誉教授

昔、ラジオ放送をしていた頃のこと。だんだんテレビが普及し、人はみんな音だけのラジオより、見えるテレビに夢中になっていった。でも本当に見えるほうが、いいのだろうか。
ある時、一人のラジオ番組の制作者がこんなことを言ったのを思い出す。「例えば一匹の犬が番組に出たとしよう。テレビなら、どんな犬かは視覚的に限られてしまう。しかし、ラジオだと見えないだけに、泣き声一つでも、さまざまな犬を各自で思い描き、楽しむことができる」と。
一方、人はよくこんなことも言う。「見えもしない神様を、よく信じられますね」と。なるほど、神様はこの肉の目では確かに見えない。
しかし、見えないからこそ信じるのであり、信じてこそ初めて神様の世界はその人の中で、その人の思いをはるかに超えて広がっていくのではないだろうか。
ところが身近な伝道の場に目を向けると、「見えれば信じるのだが……」とためらい、「わかれば信じるのに……」と躊躇し、そのところで立ち往生している人の何と多いことか。
中でも多いのは、「もう少し神様がわかるようになれば」との思いをもつ人々だろう。しかし、不思議なことに真実はその逆で「信じれば、わかるようになる」ようだ。
それでは、「神様を信じる」とは一体どういうことなのか。
ここにも落とし穴がある。
一つの信じ方は、哲学的、観念的な神の捉え方。様々な自然現象、森羅万象の説明を付けるのに神の存在が必要なので、神はいるとする信じ方。
この場合の神は、哲学的、観念的な神であって信仰上の神ではないために、生きる力にはならない。
もう一つの信じ方は、人格的な神様を信じることであり、日々の生活の中で神様と人格的に交わり、神様に従い、神様に仕え、神様に自分の一切を明け渡す生き方に導かれることである。
このことは言うのは簡単だが、行うのは至難の業。信じているつもりが、いつの間にか疑念に苛まされている。
しかし、信じようとすればするほど疑念は湧いてくるものである。信仰とは、日々この疑念との戦いではないだろうか。