時代を見る目 161 日本の宗教行事への対応(2)
節分・善悪を分けすぎる危険

勝本正實
日本聖契キリスト教団・初石聖書教会 牧師

 節分の行事は、ふだんの家庭生活から遠のき始めています。それは季節感の希薄さ、生活習慣の変化、伝統を大切にする心の欠如などによるものでしょうか。ただ神社仏閣で、幼稚園や保育園や高齢者施設で、行事として行われています。その目的とするところは異なっていても、千年の歴史を持つ伝統行事です。

 節分の行事は、もともと季節の変わり目に疫鬼と災厄を祓う目的を持って、まず宮中から始まりました。鬼を追い払う儀式と年男が豆を撒く儀式がありました。最初は鬼は悪者と決まっていたわけではなく、鬼が悪魔払いや厄払いの修法を務めていましたが、いつの間にか鬼を打つようになりました。節分に撒く大豆などの穀類は、穀物の持つ生命の神秘的な力で悪鬼や悪霊を追い払えると考えていたものです。

 私たちが幸せな生活を願うとき、それを邪魔する不幸・災いとして、病気・事故・災難・飢饉・伝染病などがあります。それらを個人や家族で防ぐことは不可能です。そこで招福と除災の願いを込めて節分の時期に「追儺式」が行われてきました。素朴な信仰心が表れた昔からの行事です。

 そこで注目したいのは「鬼」という存在が、かつては善人にもなれば悪人にもなるという存在であり、それは「人間」とのかかわりの中で態度が変化したということです。私たちが小さい頃に聞いた昔話を思い出してください。そこには人間味にあふれた良い鬼もいれば、怖い鬼もいたでしょう。鬼とは時に先祖を象徴し、時に世の中の人間を象徴していました。それは私たちの世の中や、私たちの性格に「善と悪」が共に宿っていることを表すものでした。

 今の時代は複雑化・広範囲化している面と、単純化・画一化している面が同時進行で進んでいます。人間を、善人と悪人で分け、勝者と敗者に分け、役に立つか立たないかで分け、好き嫌いで分け、賛成か反対で分け、敵か味方かで分けたがります。

 しかし実際は人間は複雑怪奇な存在であり、良くもなれば悪くもなる存在です。曖昧さを持った存在としての人間を、そして社会を観る必要があります。「鬼は外」と言っている自分が鬼・疫病神のような存在になることを自覚しない社会や人間関係は、思いやりも痛みも反省もしない狂気の世界となっていきます。