時代を見る目 155 齢を重ねることの意味(2) 高齢者と成長

岡村 直樹
東京基督教大学 准教授/日本同盟基督教団 神学教師

 エイジズム(高齢者に対するステレオタイプや差別)が蔓延する現代日本にあって、教会はどのような神学的モチーフ(主題)を用いて、「高齢」の意味を考えるべきであろうか。聖書は人間が齢を重ねる事の意味について、様々な箇所で言及している。高齢は神の祝福の表れのひとつの形であり(箴言一〇・二七)、高齢者を敬うことは神の命令である(レビ記一九・三二)。また神は高齢者に対し、若い者を教える責任を与えている(皂テモテ五・四)。これらは教会がその歴史を通じて重要視した訓戒であり、クリスチャンが「高齢」を考えるときに、まず挙げられる聖書の教えであろう。しかし現代日本の社会状況と、それが教会に与える影響を考慮するとき、さらに強調されるべき聖書の教えを思わされる。それが「高齢者の成長」という概念である。

 一般社会において「高齢者」と「成長」という言葉が共に用いられることは少ない。確かに身体的成長は、人生の前半にそのピークを迎え、その後は下降線をたどる。しかし聖書の教える成長の可能性は、幼児期や青年期に限定されるものではない。「キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(Ⅱペテロ三・一八)とはすべてのクリスチャンへ命令である。またパウロは「あらゆる点において」(エペソ四・一五)成長すべきと教えている。それは神に対する信仰や聖書の知識もさることながら、精神的、倫理的、社会的な成長も指しているだろう。

 米国の宗教心理学者ジェームス・ファウラー(一九四〇~)は、その著作「信仰発達論」において、信仰者の具体的な成長を直感的信仰、主体的信仰、普遍性段階等の六段階で示している。個々は自らの置かれている信仰の段階を確認しつつ、その次の段階を成長の目標として設定するように勧めている。また彼はパウロ同様、信仰の成長を広義に捉え、クリスチャンはその年齢にかかわらず、信仰の高嶺を目指すべき存在であるとしている。高齢者軽視や高齢者のセルフイメージの低下が危機視される現代日本にあって、高齢者が若年者と同様、自らを「成長する存在」と位置づけることは、その者の成長を促し、かつ自身がまだ成長とういう希望を持てる存在であることを確認することにもつながるはずである。ファウラーの唱える信仰成長の各段階に関して議論の余地が残るが、「具体的な成長の目標をかかげつつ、信仰の高嶺を目指し、生涯を通して成長する」という彼の基本的な高齢者観は聖書的であり、かつ非常に重要な神学的モチーフのひとつを今日の日本の教会に提供していると言えるだろう。