時代を見る目 148 こだわらない生き方(3) たとえ損をしても

森田 哲也
日本国際飢餓対策機構 元エチオピア駐在スタッフ
日本長老教会所沢聖書教会会員

 ルワンダを訪問した。一九九四年、二つの民族フツ・ツチ族の争いで、百日間のうちにおよそ百万人が、“ジェノサイド(民族抹殺)”で虐殺された歴史を持つ国。名も知れない小さな村で、ローレンサさんという女性に会った。自身の息子、娘十二人と夫や親戚を近所の男たちに目の前で虐殺された彼女。貧しかったため、何も持たずに避難キャンプ所を頼り、そこで数年を過ごした。

 事態が収束し元の村へ戻っても職がなく、被害者連盟からのわずかな補助金で細々と生活していた。するとある日、家族を虐殺した憎き男が夢の中にふと出てきた。食べ物もなく蔑まれた姿で刑務所にいる男の姿が現れ、神様が「助けなさい」とおっしゃった。被害者が虐殺者と接触するのは民衆法廷の場以外にない中で、彼女はその男がいる刑務所へ食べ物と毛布を持って訪ねた。突然の被害者の訪問に男は驚きつつも、少しずつ話をするようになったという。

 しかし、出所した男は悔い改めも謝罪もせず、虐殺者への訪問に怒った被害者連盟から補助金を停止されて貧しさのどん底にある彼女を、助けているわけでもなかった。なぜだかわからないが、彼女の究極の赦しの行為が必ずしも実を結んでいるわけではない。でも、彼女は言う。「神様がおっしゃったから私は赦し続ける」と。私の感覚では、「これだけ赦されたのに何もしないの?」と男を責めたくなる思いが募る。でも彼女は、すぐに目に見える結果がなくても神様からの呼びかけにひたすら答える。自分にとってすべてが損な方向へ行ったとしても、である。

 日本の受験戦争、成果主義による人の心に及ぼす弊害が叫ばれるようになって久しい。それでも、目に見える結果を求める思考、損得勘定の感覚は私たちキリスト者の中にもある。値しない神様の赦しを一方的にいただき、恵みの下で生かされている私たち。しかし、他人を愛し赦すという行為はしても、結局自分への見返りを相手から求めている心の醜さがある。ローレンサさんに出会って、私は自分のその罪深さにがく然とした。

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(1ヨハネ四・一〇)てくださったのに、まだ私は自分だけを愛している。貧困あり、究極の憎悪で苦しむ人々ありの国で、人からまったく注目されない小さな村のひとりの女性から、損得にこだわらない本当の生き方を教えられた。