時代を見る目 124 国旗・国歌をめぐって(3) 抵抗こそ使命

岡田 明
都立高校勤務
日本福音キリスト教会連合 主都福音キリスト教会会員

 服務上の責任を問う、という一文に皆が驚愕しました。一昨年秋に東京都教育委員会が出した国旗・国歌に関する通達には、起立・斉唱しなかった教員への処分が明記されていたのです。

 強制に反対する教員たちは知恵を絞りました。そして人権侵害が発生することが明らかな法令に対しては、被害が出る前にその無効を求めることができるという「予防抗告訴訟」に可能性を見いだし、提訴し、抗議の声を結集していきました。この強制が国家や天皇を絶対化し、偶像礼拝に通じると感じていた私も原告に加わりました。

 すると「キリスト者の立場から従えない旨を述べてほしい」と頼まれました。舞台は東京地裁の大法廷。一瞬臆しましたが、「これは証しの機会だ。主からの指名だ」と思い、承諾しました。そして当日、法廷で陳述していると、主がこの国をいかに愛しているか、今の状況をどれほど憂えているかが、突然実感として迫ってき、涙が溢れ、言葉に詰まりました。

 この国で生まれ育つと、集団の「和」を第一に考えるようになります。この国は人と違う言動に不寛容で、異端者をイジメるからです。だから心の中で違うと思っていても、集団の意向に合わせてしまいます。しかし、集団の意志決定は、周りをイエスマンで固めたワンマンリーダーの独裁か、無責任な談合であり、いずれも自浄作用が弱く、軌道修正が難しいのです。

 国旗・国歌の強制問題についても、独善的な都知事や教育委員会の強気な命令に対し、皆が「しかたがない」とあきらめています。うすうすこれが黙って国に服従する国民づくりのためであり、「国益」を殺し文句とした国の暴走の始まりだと思いつつ、流されています。

 私も日本人気質に満ちています。目立つことは恐いです。しかし、私が黙認、妥協することは、自分が偶像礼拝の罪を犯すことにとどまらず、体制側の一員として暴走に加担することを意味するのです。生徒、そして国のためにも声を上げなければいけないという迫りを感じます。

 大げさに言えば、職を賭しての戦いが待っています。どこまでできるかわかりません。しかし、主が私を戦いの最前線に置いた以上、主の助けを受け、この狭い門をくぐるしかないのです。

 国旗・国歌の強制は、教員だけでは済みません。生徒、保護者、地域へと広がり、私たちの大切なものを奪っていく重大な問題です。みなさん、どうか共に祈り、戦ってください。