時代を見る目 101 高齢化社会(1) 「老いるショック」

野田 秀
野田 秀
東京フリー・メソジスト 桜ヶ丘教会 牧師

 新聞の片すみに「老いるショック」と書かれているのを見て、思わず笑ってしまった。それはもちろん「オイルショック」に引っかけてのものであるが、なかなか言い得て妙である。思わず笑った自分のその笑いを、あとになって考えてみると、それは必ずしも単純なものではないことに気がついた。そこにあるのは、まず、この駄ジャレにあることばのおかしさへの笑いである。「うまいことを言う」という感じで、年齢に関係なく持つ笑いである。しかし、私の場合、それだけではなかったと思う。それは「老いるショック」を少しずつ経験しているものが「うーん。分かる、分かる」という感じでもつ苦笑いのようなものでもあったからである。人の老い方はもちろん様々であって一様ではない。しかし、共通していることは、ある日、自分の老いを実感させられることがあって、そこでショックを受けることではないだろうか。それが「老いるショック」である。

 「清左衛門自身は世間と、これまでに較べてややひかえめにながらまだまだ対等につき合うつもりでいたのに、世間の方が突然に清左衛門を隔ててしまったようだった。多忙で気骨の折れる勤めの日日。ついこの間まで身をおいていたその場所が、いまはまるで別世界のように遠く思われた」。

 これは藤沢周平が「老い」を描いた「三屋清左衛門残日録」の中の一節であり、五〇代半ばで隠居した主人公の感慨である。

 老いなどまだまだと思っていた私にも、こういうことがあった。電車から降りようとしたのだが、扉の前に数人の大学生たちが立っていたために出られずにまごまごしていたら、ひとりの女子学生がこう言ったのである。「おじいちゃんが出たいって」。仕方のないことであるが、できるなら「おじいちゃん」と言ってほしくないと思っている者にとって、それは、周りの目にはとっくにそう映ってはいないのだと認めさせられるショックなのであった。

 老いから来るショックは、年々増すに違いない。苦笑いが泣き笑いになる日も遠いことではないかも知れない。それならそのショックをしっかり受けとめ、あるがままの自分を認め、自分で自分を笑えるくらいであれば、それがショックをやわらげる高齢者の知恵と言えるかも知れない。