新約聖書よもやま裏話 第6回 汚れときよさ

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生 イエスは、パリサイ人や律法学者と、ことあるごとに議論をなさった。その対象となったのは、旧約聖書に書かれている律法の解釈、特に具体的な律法の遵守の仕方であった。イエスの言動は、当時の律法学者の目には問題があるように映った。

 たしかに、旧約聖書の律法を文字どおりに解釈すると、福音書には、イエスが律法に抵触していると見受けられる箇所がある。

汚れたものにさわる

 たとえば、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとに来てきよめてくれるように頼んだ際に、イエスは、手を伸ばして、彼にお触れになった。旧約聖書律法からみれば、汚れているツァラアトに冒された人にさわれば、さわった人も同じように汚れることになる。しかしイエスは、あえてそうなさった。

 また、ヤイロの娘が病気だと言うので、イエスは出かけていかれたが、その道中で娘は死んでしまった。旧約聖書律法によると、死ほど深刻な汚れはない。しかし、ヤイロの家に着いたとき、イエスは死んだヤイロの娘の手に触れてよみがえらせた。

 ヤイロの家に行く途中、イエスはもうひとつ、いやしの奇跡を行っている。ある長血を患った女性がイエスの背後から、衣のすそにさわった。律法では、長血は汚れのもととされていた。この女性は、イエスの衣のすそにでもさわれば癒されると、なぜか信じ込んでおり、その期待どおりに癒された。また、イエス自身も「自分のうちから力が外に出て行ったことに気づい」ておられた(マルコ五・三〇)。

汚れに打ち勝った

 当時、汚れたものに触れれば汚れは移り、きよいものも汚れるというように考えられていた。

 しかしなんと、イエスの内なる力は汚れに打ち勝った! だからこそ、イエスはツァラアトに冒された人に触れても汚れるどころか、その人をきよめ、ヤイロの娘の手を取り、よみがえらせることができ、長血を患った女が触れたときにもいやすことができた。

 イエスがあえてツァラアトに冒された人に触れたのは、毛嫌いされていたその人が社会復帰するためには人の温もりが必要であったからだ。

 当初イエスは、ヤイロの娘は「眠っているだけだ」と、言い、身内の者と身近な弟子のみを同伴した。娘がよみがえった後にも、だれにも言わないようにお命じになった。死人をよみがえらせたとひろまれば、大きな騒ぎになる。そのような事態を招くことをイエスは極力回避しようとしていた。

 また、長血を患いイエスの衣に触れていやされた女性も、衣に触れさえすれば治るという迷信的信仰から脱却するため、イエスの人格に接することが必要であった。

汚れとは何か

 イエスが、パリサイ人や律法学者たちとなさった汚れ・きよめについての議論の発端は、弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことであった。これは衛生の問題ではない。

 律法では、死や病気、神から遠いもの、呪いなどが汚れとされていた。それに触れば、伝染する。汚れを落とすためには、律法に規定されているとおりに、いけにえなど一連のきよめの儀式を執り行わなければならなかった。きよい神に近づくためには、汚れから離れ、きよくなければならなかったからである。

 だからこそ当時のユダヤ人たち、とりわけパリサイ人や律法学者は、自分が汚れに接してはいないだろうかといつも心配していた。もし汚れた手で食事をすれば、その汚れが体内に入り、体が汚れてしまうと考えていたからである。だから、食前には、汚れているかもしれない手を必ず洗うべきだと主張したのだ。

 このような考え方にイエスは一矢を報われた。人々が騒いでいる汚れは、外から人間の体内に、口から腹に入る。しかしその汚れは後に体外に排泄される。人を汚すものとは、体の外から体の内に入るものではなく、人の心の中から出てくるものだ、と。

 議論の中で、イエスは、汚れを再定義なさった。汚れとはそういうものではない、と。人の心の中の悪、端的に言えば、罪こそが汚れだ、と。だからこそマルコは、「すべての食物をきよいとされた」と注釈を加えている。

律法が生きていた世界で

 私たちはイエスが十字架によって律法を成就し、人と新しい契約を結んだ新約聖書以降の世界に生活している。そんな私たちは、イエスが語った汚れ、きよさを、道徳的な視点や倫理的な視点だけから理解しがちである。

 しかし、イエスが生き、弟子たちが活躍していたのは、旧約聖書の律法が生きた戒めとして守られていた世界である。私たちはつい見落としてしまうが、その世界で、イエスが語った発想の転換、汚れの再定義は、想像を絶するほどに重大で、画期的な出来事だったことを覚えておきたい。