新約聖書よもやま裏話 第16回 “神学者”パウロ?
パウロが書いた手紙

伊藤明生
東京基督教大学教授

伊藤明生 「パウロ」と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるだろうか。彼が書いたローマ人への手紙を読むと、どのような「キリストのしもべ」の姿が彷彿としてくるだろう。想像力をつけ創造力をきたえることは、聖書を読み、理解する上で重要なことだ。

はげ頭でガニ股

 聖書のどこにもパウロの姿、ペテロの背格好やナザレ人イエスの風貌などは描かれていない。だが新約聖書に記載のないような事柄が、新約聖書の外典などにしばしば記載されていることがある。たとえば、外典の行伝によると、パウロは、はげ頭で、小柄、ガニ股であったという。

 パウロの見た目はさて置き、彼がどういう背景で生きて、どういう人柄であったかを知ることは、パウロの手紙を読み、理解する上でとても大切である。

 もしかしたら、ローマ人への手紙など「小難しい」(?)パウロが書いた手紙を読んで、「神学者パウロ」を思い描く人もいるかもしれない。「神学者パウロ」と聞いて、大きく立派な薄暗い書斎で、安楽椅子に深々と腰を掛けて、葉巻かパイプを燻らせて、額が皺だらけで白髪の老人を思い描く人もいるかもしれない。実際に、画家が描いたパウロの絵には、そういうものもある。「神学者」と言えば、俗世を離れて書斎に引きこもっているイメージは拭い去り難いか。

 パウロが神学的思索をし、神学的内容の手紙を書いたことは事実だ。しかし、書斎にこもり、神学書の山に囲まれて、神学書執筆に熱中する姿は、明らかに時代錯誤である。歴史上のパウロの日常生活から、あまりにもかけ離れている。

パウロ神学の基

 後に「異邦人の使徒パウロ」と呼ばれるようになったサウロは、タルソ出身で、エルサレムにてガマリエルのもとで律法を学んだパリサイ人であった。十字架にかけられて呪われた死を遂げたナザレ人イエスはキリスト(救い主)であり、主であり、神であると告白することは神への冒涜にほかならない、と固く信じていた。

 そんなサウロは、キリスト者を迫害し、教会を弾圧するためにシリヤのダマスコまで出かけた。その道中でよみがえられたイエスに出会ったのである。

 よみがえられたイエスに出会った事実は、さらには十字架にかけられたイエスがよみがえった事実は、キリスト者たちこそ正しく、自らが間違っていたことを意味した。

 ダマスコ途上で自らの間違いを思い知らされ、改めてサウロは自らの神学を思い巡らさなければならなかった。十字架につけられたナザレ人イエスが主であり、メシヤであった! キリスト者たちのほうが正しく、それまで冒涜だと思っていたことこそ正しかった! 自らの結論を正した上で、再び旧約聖書と律法を読み直さなければならなかった。

 アナニヤが訪れるまで、サウロは、目が見えない状態で自らの神学を再解釈し、再構築するために瞑想していたことだろう。ダマスコ途上での体験こそが使徒パウロの神学の基となった。

牧会者としての神学

 使徒パウロは、神学的研鑽を積んだ人ではあったが、書斎に閉じこもり、神学書に囲まれて神学的思索に没頭したり、神学書を執筆したりした人ではなかった。あくまで牧会の現場、宣教の現場で活躍した。宣教しながら、牧会しながら、次々に生じる課題、問題に取り組んだ。とりもなおさず宣教者、牧会者として神学をしたのだ。

 古代には、哲学者や文学者が「手紙」という形態で、著作活動を公にすることがあった。しかしパウロは、形式的にではなく、内容的にも目的を持って手紙を書いた。昨今では、手紙を書くというよりもEメールを送るという方が、一般的でわかりやすいかもしれない。

 手紙は、差出人が受取人に伝えたいことがあって書かれ、具体的な目的を持っている。本来ならば、ねんごろに語りたい事柄を、実際に会うことが無理だったため、彼はその代わりに手紙を書き送ったのだ。

必要に応えた手紙

 新約聖書に収められているパウロの手紙十三通には、個人あての手紙もあるが、信徒の群れである教会あての手紙もある。そして、信徒の群れは、七つ数えることができる。パウロが伝道して成立した教会がほとんどであるが、ローマとコロサイのようにパウロが訪れたことがない教会への手紙もある。獄中から書き送った手紙もある。

 パウロは、さまざまな牧会的必要に応えるため、また宣教の目的を果たすために手紙を書き送った。けっして文筆業に従事していたのではなかった。日々の生活のただ中で、教会が直面する課題や問題に応えていたのだ。

 「……労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べる物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」(2コリント一一・二七、二八)