文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第8回 旧約物語文の解釈 (下)

関野祐二
聖契神学校校長

 旧約物語文は、魅力にあふれ心躍るストーリー満載ですが、生ける神のことばとしてそこから日々の糧を得るとなると、決して解釈のやさしい読み物ではありません。その正しい用法とは何か、まずは誤った用法を正すところから始めましょう。

 ● 旧約物語文は何「でない」か

○ 隠された意味に富む寓話ではない

 物語文が、元々の聞き手に意味のわかるストーリーとして書かれたのは事実としても、歴史における神のみわざを記した物語ゆえ、その目的に沿って読む際に必ずしもわかりやすくはなし。行間を読みすぎる危険と常に背中合わせで、聖書が沈黙していることを無理に知ろうとすれば、こじつけ解釈に陥ります。

 その極端な例が寓喩的解釈で、アブラハムのしもべによるイサクの嫁捜し(創世二四章)を、聖霊(しもべ)を通して花嫁(リベカ、教会)を捜す花婿(イサク、キリスト)のアレゴリーと読むのは、明らかに不適切です。

○ 道徳的教訓が第一目的ではない

 物語文本来の目的は、神がイスラエル史においてなしたみわざを語ることにあり、正しいふるまいや過ちの道徳的実例を示すことではありません。

 例えば、創世記二五章以降に展開されるヤコブとエサウの物語は、第一義的には両親の偏愛がもたらす弊害を教える教材ではなく、アブラハム契約がエサウよりもヤコブを通して継承されたことの証言。それは家系存続のため長子が選ばれるという当時の文化的標準からしても、決して「正当な」結果とは言い難い神のみわざでした。兄弟の確執やラバンゆえの苦悩を経たヤコブの成長は実に興味深い物語ですが、生活の諸原則や道徳的教えがメインに意図されてはいません。

○ 旧約だけでは終わらない

 旧約物語文のトップレベル「贖罪史」は新約にまで一貫します(前号参照)。ヤコブの選びは、異邦人を含むキリスト者こそアブラハムの(霊的)子孫、約束による相続人であるとの壮大なメッセージ(ローマ九章、ガラテヤ三章参照)。だからこそ旧約物語文は私たちの霊的歩みと重なり、イスラエルに対する約束や召しが、私たち自身への救いの約束と神の民への召しになり得るのです。

○ ストレートには教えない

 ダビデのバテ・シェバ事件(Ⅱサムエル一一章)に、「ダビデは姦淫という悪事を働いた」などのコメントは見あたりませんが、読者は「姦淫してはならない」(出エジプト二○・一四)と、十戒ですでに示された明白な教えを知っていると期待されています。ダビデ物語は、姦淫の罪が彼のプライベートな生活および王としての統治能力に、どれほど悲惨な結果をもたらしたかを示すことで、「姦淫してはならない」との戒めを雄弁かつ効果的に教えていると言えましょう。

● 物語文解釈の原則

 ① 旧約物語文は通常、直接には教理を教えず、先に教えられていた教理を前提とします。前述のバテ・シェバ事件がその実例です。

 ② 物語文はすでに起こった事実の記録ですから、登場人物は必ずしも手本でなく、模範からは程遠い反面教師の場合が多々あります。

 ③ 物語文の結末で、物事の善し悪しは必ずしも述べられず、読者の判断にゆだねられます(例 創世三四章のシェケム虐殺事件)。

 ④ 物語文は、霊感された著者が特定の目的に沿って主題を扱った結果、重要と思われる事柄のみを記述しています。詳細は描かれておらず、すべての問いに答えてもいません。

 ⑤ すべての物語文において、神ご自身が英雄であり主人公です(例 創世三九・二、三、二一、二三「主がヨセフとともにおられたので」、五○・二○「神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」)。

● 誤った個人化に注意

 聖書の個人的適用を是とし、信仰生活の要と位置づける私たち福音派が最も陥りやすい過ちはコレ。神の贖罪史物語である旧約物語文を、自分の今の窮状に助けとなるよう無理に適用したり、どうしても「今日のみことば」から答えがほしくて自分の特殊事情に直接あてはめる、そんな「忍耐不足」から解放されましょう。

 誤解を恐れずに申し上げるなら、聖書の物語は特別に「あなた」一人に対して書かれているのではなく、あらゆる時代の人々が対象。ヨセフ物語は神がどのようにヨセフを通してみわざをなしたかの物語であって、直接には「あなたについての」物語ではありません。「あなたは」ヨセフと同じことをするようには期待されていないし、同じことが自分にも起こると考えるべきでもないでしょう。ソロモンによる神殿建設の物語を「我々も新しい教会堂を建てなければならない」と直接に個人化するのは誤りなのです。

 私たちが物語文から学ぶべきは、登場人物に対する神のお取り扱いであり、登場人物と同じ行為の実行ではありません。だからこそ適切な解釈の作業が必須なのです。神が旧約聖書物語文において私たちに行うよう促している、神の原則と召しに従いましょう。