文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第7回 旧約物語文の解釈 (上)

関野祐二
聖契神学校校長

ファニー・クロスビー作詞の聖歌四四四番「われにきかしめよ」に、「主の物語」ということばが出てきますが、この「物語」(story)が架空の話に聞こえて歌いづらいとのコメントを聞いたことがあります。

 「歴史」(history)は「主の物語」(His story)ですから含蓄ある歌詞なのは疑いなし。ただ事情は英語圏でも同じようで、聖書にある神の物語を「物語文」(ナラティヴnarrative)と呼ぶのが最近では一般的です。

 物語文は旧約の四○パーセントを占める最も多い類型で、新約の四福音書や使徒の働きも含まれますが、新約二文書は独自の解釈法が求められるので改めて扱うとし、以下旧約物語文に限定して学びましょう。

● 物語文とは何か

 一般に物語文とは、現代人に意味と方向性を与えることを意図し、過去の歴史的出来事をもう一度語る、目的を持った物語。その点では、聖書の物語文と一般のそれとで差異はありません。決定的相違とは、聖書物語文が聖霊によって霊感された「神の物語」ゆえ、神がその物語の中に私たちを「書く」ことで、「私たちの物語」になるということ。その目的は、天地創造や神の民における神のみわざを示すことにより、私たちに神の摂理や保護など「神ご自身」を教えて理解させ、物語の一員たる私たちが神に栄光を帰すことです。

 一般の物語文は、登場人物、筋書き、筋書きの解決という三部分から成り、解決の必要なある種の葛藤や緊張を前提としています。

 聖書物語文で、登場人物は「神」(主人公protagonist)、「サタン、悪い人々、悪の力」(敵対者antagonist)、「神の民」(主要人物agonist)の三者。筋書きは、創造主が人をご自身のかたちに創造し、人は地の管理者になるべきであったが、敵がこの世に侵入して人はこの敵のかたちを負うようになったこと。筋書きの解決は贖罪物語で、神がどのように人を敵から救い出して神のかたちを回復し、新天新地をもたらすかです。

● 物語文の三層構造

 旧約物語文は、以下の三層構造を意識して読むと、その味わいがまるで違ってきます。

 ○ トップレベル(上層)
 これは、天地創造に始まり新天新地に終わる、神の全宇宙的計画のこと。「贖罪物語」「贖罪史」とも呼ばれ、人間の堕落、罪の力と贖いの必要性、キリストの受肉と犠牲などを示す、旧新約聖書に一貫した流れです。

 ○ ミドルレベル(中間層)
 イスラエル史のこと。アブラハムの召命に始まる族長の歴史、エジプトでの奴隷生活、選民イスラエルの出エジプトとカナン入国、神の民の不服従、神政共同体から王国へ、神の忍耐深い守り、北イスラエルと南ユダへの分裂と滅亡、捕囚と帰還など、神に選ばれた民の歴史です。

 ○ ボトムレベル(下層)
 個々の物語。ヨセフ物語やダビデ物語など、より大きな上位二層を構成している、より小さな単位の物語を指します。

 ここで重要なのは、ボトムレベルの個々の物語は必ずミドルレベルのイスラエル史の一部であり、さらにはトップレベルの贖罪史の一部でもあるということ。個々の物語を解釈する際、上位二層の一部である事実を無視してより大きな文脈を考えず、物語単独で切り離し扱ってはならないのです。

 主イエスは「聖書が、わたしについて証言している」(ヨハネ五・三九)と語りましたが、それは旧約聖書の個々の物語や個所を想定してのことでなく、旧約物語文のトップレベルを意識したことば、すなわち贖罪史においては主イエスの贖いこそが中心であり、旧約物語全体がそれを証言しているという意味なのです。

● 三層理解の適用例 (ヨナ物語)

 北イスラエルの預言者ヨナは、アッシリヤ帝国の首都ニネベに行ってさばきを宣告するよう主から命じられたにもかかわらず、主の御顔を避けて正反対の方向へ船出しますが、大嵐に遭って自らの不従順を悟り、船員にお願いして海に投げ込まれます。

 主は大きな魚にヨナを飲み込ませ、腹の中でヨナは悔い改めの祈りをしました。その締めくくりはこうです。

 「むなしい偶像に心を留める者(異邦人)は、自分への恵み(主の誠実な愛)を捨てます。しかし、私(イスラエル民族)は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです」(ヨナ二・八、九。括弧内は筆者による)。

 彼は、ボトムレベルで起こった自らの逃亡と背信を悔い改め、ミドルレベルの神理解、イスラエル民族を愛する神への信頼を回復しました。しかし、それに挑戦するかのように主はヨナ書三章でニネベを赦し、トップレベルのご性質、すなわち異邦人も含めた人類全体へのあわれみと愛を示したのです。

 ヨナはそれを受け止めきれず、ヨナ書四章で猛然と怒ることになります。

 ヨナ物語は単なるヨナの愛国心物語ではなく、トップレベルの贖罪史に流れる主の誠実な愛を理解してはじめて、「神の物語」となるのです。