文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第28回 28回)黙示録の解釈 上

関野祐二
聖契神学校校長

 「黙示録の解釈は難しい」、これが聖書を読む多数派の実感でしょう。旧約物語文や詩篇、福音書や手紙のようには平易に読めない、とも。しかし、たやすく読める書の解釈がやさしいとは限らないことを私たちはこれまで学んできました。ラッパや鉢、獣や竜、地震や深い淵、角や目の満ちた生き物などの不思議な光景にたじろぐことなく、聖書全巻の結論とも言える黙示録の解釈に挑戦しましょう。動機付けは黙示録一・三です。

● なぜ黙示録は難しいか

「私ヨハネは……パトモスという島にいた」(黙示録一・九)とあるように、ヨハネの黙示録は、かの老使徒が紀元一世紀の終わり頃、迫害ゆえに送られたエーゲ海の孤島パトモスで、アジヤ州にある七つの教会宛てに書いた、著者・場所・宛先が明確な手紙。それならわかりやすいはずと思いきや、事実は逆で、異様な象徴表現に満ち、未来の出来事を扱い、用語は旧約聖書的で二百五十回もの旧約引用やほのめかしがあり、しかもそれが一世紀の文脈に置かれているため、複雑かつ難解なのです。だから、慎重な釈義と読み手の謙な姿勢は必須条件。宗教改革の時代、「黙示録の注解書を書いてはならない」との不文律があったほどなのですから。

● 黙示録の文学様式

黙示録がユニークなのは、黙示・預言・手紙という、三つの異なる文学様式がブレンドされていることです。

○ 黙示(Apocalypse)

「黙示」は黙示録の主要な、しかし今日存在しない文学様式。紀元前二百年~紀元後二百年頃、多数の「黙示文学」が流布し、当時のユダヤ人やキリスト者によく知られていたのですが、黙示録は黙示文学と多くの共通点を持ちながらもそれとは区別される、黙示文学的色彩を帯びた新約正典です。黙示文学のルーツは旧約預言書、とりわけエゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書、そしてイザヤ書の一部がそれ。預言書と同じく、来るべきさばきと救いを扱うのですが、迫害や圧迫の時代に生まれた様式なので、大きな関心はもはや歴史の中における神の活動にはなく、神が歴史を暴力的かつラディカルに終焉させ、義の勝利と悪の最終的さばきがもたらされる時をひたすら待ち望みます。預言者がヤハウェの代弁者として託宣を語り、後にそれが預言書となったのに較べ、黙示は最初から書かれた文学。しかも、昔の装いを施し、エノクやバルクなど過去の著名人によって書かれたように見せかける「偽典」として、後の時代(すなわち書かれた今)のためそれを封印したと語ります。その象徴は空想的で、「十本の角と七つの頭」の獣(黙示録一三・一)、「ひとりの女が太陽を着て」(一二・一)、「人間の顔のよう」ないなご(九・七―一○)など、想像しがたい組み合わせや数字が多数登場します。黙示録がいわゆる黙示文学と決定的に異なるのは、それが偽典でないこと。使徒ヨハネ自身が、迫害の苦しみを共有しながら当時の現実の教会に語りかけているのです。

○ 預言

黙示文学の多くは、預言が止んだ中間時代、すなわち来るべき新時代に聖霊が注がれるとの預言的約束(エゼキエル三六・二六―二七、ヨエル二・二八―二九)を待望する期間に、預言者の名を借りて書かれました。他方ヨハネは、終わりの日が主イエスの来臨とともにすでに始まり、聖霊降臨が現実化した新時代の使徒。彼は単に破局的終末を待望していたのではなく、「終わりの時代はすでに来た、しかしいまだ完成はしていない(すでに/いまだ)」という、私たちと同じ神の国の終末感覚を意識し、御霊によって預言したのです。ヨハネは「御霊に感じ」(黙示録一・一○、四・二)、「この預言のことば」(一・三)を記録しました。黙示文学のような将来のため封印することばではなく、現在の状況に対する神のことば、同時代の教会への預言としてです。そもそも預言とは、単なる未来予告ではなく、来るべきさばきと救いを見据えたうえで、今この時に悔い改め神に立ち返ることを求める内容。その意味でまさに黙示録は、外部からの迫害と内部の腐敗にさらされた、一世紀末の教会に対する預言と申せましょう。

○ 手紙

黙示録は、小アジヤにある七つの教会宛ての手紙として、使徒ヨハネにより書き送られたもの(一・四―七、二二・二一)。ですからヨハネは、「私は」とか「あなたは」などの個人的口調で読者に語りかけます。手紙なので状況的側面を持ち、少なくとも部分的には宛て先教会の特別な必要に即して書かれています。だからこそ、本来の歴史的文脈で黙示録を理解する努力が必要となるわけですね。

● 何としても黙示録を

冒頭に掲げた聖句のように、私たちは黙示録を朗読し、心に留め、親しんで来たかどうか探られます。七つの教会へのメッセージと(一―三章)、新天新地の光景だけ読んで(二一―二二章)、途中すっ飛ばす「キセル」をして来ませんでしたか。これは、黙示録を難しいと勝手に思い込ませ、サタンの最終的敗北とキリストの勝利をあざやかに預言する黙示録がしっかり読まれないための、サタン流(?)妨害行為とも言えましょう。ならば、意地でも読まなければなりませんね!

*連載執筆にあたり、原書出版社の許可を得て、以下の書を主に参照しました。 Gordon D. Fee & Douglas Stuart, How to Read the Bible for All Its Worth 3rd.Edition, Zondervan, 2003