文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第18回 律法の解釈 (下)

関野祐二
聖契神学校校長

 新約聖書で更新され、今日の私たちにも有効な旧約律法が「十戒」と「二大基礎律法」(神/人を愛せよ)であり、それ以外の膨大な旧約律法に直接の拘束力がないのなら、なぜそれら後者が霊感された聖書の一部として座を占め、私たちに神のことばとして与えられているのか。律法授受後のイスラエル史を含む聖書全体から考えてみましょう。

● イスラエル民族における律法の意味
○ 神の民は律法を喜ぶ

 旧約律法は、イスラエルが神の民であるとはどういう意味なのかを教える教材です。旧約聖書のどこを捜しても、律法を守ることで救われるなどとは書かれておらず、むしろ律法は神の民がどのように主を愛し、互いに愛し合ったらよいかを示す神の賜物。ですから、神を愛する正しい人は律法を喜びます。「まことに、その人は主のおしえ(トーラー、律法)を喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ」(詩篇一・二)、「主のみおしえ(トーラー)は完全で、たましいを生き返らせ」(詩篇一九・七a)。詩篇一一九篇は、各節に律法が詠み込まれている有名ないろは歌。さらに、民が律法を完全には守れない時のため、主は赦しと贖いの手段をもまた提供されました。きめ細かい配慮ですね。

○ 律法を守らない選択?

 しかし、旧約聖書に記録されたイスラエル民族の歴史はイコール、律法に対する彼らの不服従と、偶像礼拝の物語でもあります。イスラエルの問題とは、律法を守りきれない「無力」さではなく、律法を実行しないとの「選択」にありました。シナイ山の麓でも、彼らは主にいけにえをささげつつ、金の子牛をも拝むことを選んだのです(出エジプト三二・五、六)。イスラエルはカナン人の神々のむなしさやみだらな性質ではなく、義とあわれみの神である主のご性質を表すべく、召し出された神の民。ここに、私たち新しいイスラエルが旧約律法をよく知るべき重要性があります。

○ 律法は心に書き記された

 ですから旧約律法はイスラエル史において、聖霊により律法が心に書き記される新しい契約の時代を要請し、予感させます。預言者エレミヤとエゼキエルによる新時代到来の預言はペンテコステに成就し、今や主イエスを信じるすべての人に聖霊が与えられ、その心に律法が刻まれました(エレミヤ三一・三一―三四、エゼキエル三六・二五―二七、Ⅱコリント三・六)。律法が過越と出エジプトから五十日目にシナイ山にて授けられたように、聖霊は過越の小羊イエスの十字架から五十日目に降臨。律法は昔も今も、聖霊によって歩み出した神の民の忠誠表明であり、感謝な生活の指針、ガイドラインなのです(ハイデルベルク信仰問答八六、一一五)。

● 種々の律法
○ 直接的戒め

 これは、「~しなさい(~しなければならない)」「~してはならない」という律法のこと。こうした直接的な戒めは、ある実例によってスタンダードを定めているので、あらゆる可能性を網羅しているわけではなく、想定できるすべての状況には答えていません。たとえばレビ一九・九―一○には、収穫時の福祉律法が麦畑とぶどう畑を例にあげ定められていますが、いちじく畑やオリーブ畑には適用されるのかと問うこと自体ナンセンス。それは律法本来の包括的機能を無視して狭く解釈し、抜け道を捜す律法主義に道を開くのです。律法は、一般的適用が可能なガイドラインとして意図された憲法のようなもの。ここで、戒めが「わたしはあなたがたの神、主である」と結ばれていることには意味があり、主なる神を拝するイスラエルは、社会的弱者への配慮において、主ご自身のあわれみ深いご性質を反映させるべきなのです。

○ 条件的戒め

 一例として申命一五・一二―一七は、イスラエル人が同胞の奴隷を所有し、期間を満了して主人のもとを去らせるか否かというケースのみに適用され、それ以外の状況には不可。私たちがこの律法から学ぶべきは、イスラエルもかつてエジプトにて奴隷だったことをふまえ、神がイスラエルの民を愛するように奴隷をも愛し、寛容であること、奴隷が自由になりたくないと思うほど恵み深い制度であったこと、神こそが主人と奴隷双方を所有する究極の主であり、すべてのイスラエル人をエジプトから贖い出したことです。直接には私たちに命じられていなくても、「贖い」の背景を教える律法として重要な意味を持ちます。

● 律法から学ぶこと

 このように、旧約律法とは実例を用いた包括的な戒め。仮にこれを完璧に守ろうとするなら、パリサイ的アプローチ、すなわち律法の精神よりも文字に従う方法だけが、成功する可能性を持ちますが、それは律法を定めた神の意図に反します。その意味で主イエスは、律法をすべて守っていると自認する富める青年にチャレンジを与え、悲しみつつ立ち去るしかない彼に無力さと謙?を教えるとともに、本来の律法理解を示したのです(マタイ一九・二一)。それは律法の文字を行う道ではなく、主のあわれみに立ち返り主イエスにあって新しく生きる、聖霊に導かれた歩み。その時、律法の正しい理解と実行は、大いなる祝福を私たちにもたらすでしょう。