文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 新連載 第1回 なぜ、聖書解釈なのか(上)

関野祐二
聖契神学校校長

 「人は生きているようにしか聖書を解釈できないし、聖書を解釈しているようにしか生きることができない」

 これは筆者の恩師が語った忘れ得ぬことば。聖書の読み方(解釈)と生き方(生活)は車の両輪で、「私」というコインの表裏にも似ている関係なのです。されど、聖書を本来の意図に沿って読み、解釈し、生活に適用するのは自然にできることでもない代わりに、選ばれた人だけのものでもないのは事実。聖書をどう読んだらいいのか、自分の生活にどう当てはめたらいいのか、今さら聞けない(?)疑問の数々をごいっしょに考え、整理し、具体例を挙げながら、聖書の読み方を学んでみましょうか。生き方がかかっているのですから事は重大ですね。

● 解釈の必要性

 「聖書を解釈する必要などありません。聖書はどんな人にも理解できる神のことばなのですから、そのまま読み、書いてあるとおりを実行すればいいのです」

 日頃聖書をたいせつにし、みことばに生きることを第一としている諸氏には一見正論に聞こえることばですね。山積みされた解説書と解釈の多様性、背景理解の煩雑さにうんざりした結果とも取れます。でも、聖書の読み方に関する限り、そのまま読んで行えばよいほど(そこまで素直に実行できれば逆に素晴らしいのですが)、事は単純ではありません。マタイ五・七章の山上の説教はその典型的な例でしょう。

 聖書解釈の目的、それは特別な洞察力で、独特な新奇の解釈を打ち出したり、自分の考えに対する聖書的支持を取りつけることではなく、「聖書テキストの明白な意味を自分のものとすること」にあります。意味が明瞭に理解できてこそ、誤りなき神のことばに従い、実行する生き方が可能となるでしょう。そして聖書の明白な意味を得るには、ただ聖書を単純に読む以上の、「解釈」という作業が要請されるのです。

● 読者はみな解釈者

 聖書によってご自身のみこころをことばで啓示された聖霊なる神は、同じ聖霊によって照らされた読者が聖書を正しく解釈し、生ける神のことばとして受け止め、それによって歩むよう導かれました。考えようによってはずいぶん危なっかしい伝達方法ですが、人間の主体性を最大限尊重された神の、愛から発した期待と委任として受け止めたいところ。それは特権であると同時に責任を伴います。なぜなら私たちは無意識のうちに、自分の理解が聖書記者の意図と同じであると仮定し、自分の経験、文化、ことばと思想の理解を聖書テキストに持ち込む傾向があるからです。

 たとえば「肉の欲」(ローマ一三・一四)の「肉」を肉体と考え、肉体的欲望への抑制と解釈するのはギリシヤ的霊肉二元論の影響。パウロはこの「肉」を生まれつきの罪深い性質という意味で使用しているからです。また、「あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(Ⅲヨハネ2)という箇所から、経済的物質的繁栄こそ神のみこころであると受け止めるのは、聖書テキストの文脈を無視した「富と健康の福音」の解釈。聖書の読者は、常識的解釈のガイドラインに基づいて「明白な意味」を聖書に見いだすような、良い解釈を求められているのです。

● 聖書の特質

 聖書は私たちの主キリストに似た、神的面と人間的面を併せ持つ、歴史の中で人間のことばによって与えられた神のことば。「神のことば」であるゆえ、あらゆる時代の全人類に語られる「永続的妥当性」を有し、「歴史における人間のことば」ゆえに、言語や文化や時代に条件付けられた「歴史的特殊性」を持つのです。聖書解釈とはこの「永続的妥当性」と「歴史的特殊性」の間にある緊張によって要請されるわざ。前者に傾きすぎれば、聖書を神が天から宣言する主張と命令集に固定化し、後者に傾きすぎればユダヤ人やイエスやパウロの宗教思想書に格下げする結果を招くでしょう。

 神は、永遠の真理を、人類の特定の環境や出来事において語ることを選びました。それは、同じ聖書のことばが私たち読者自身の「現実の」歴史において、生ける神のことばとして語られる希望へと道を開くとともに、聖書解釈を要請するチャレンジともなります。神は、あらゆる状況の人間にみことばを伝達するため、驚くほど多様な文学形態(ジャンル)を用いました。具体的には、歴史物語文、系図、年代記、法律、詩、箴言、預言、戯曲、伝記的素描、たとえ話、手紙、説教、黙示文学などで、各々に適用される解釈規則が求められます。執筆当時の人々に理解可能だったこれらの書物と、時間も文化も言語も思想も隔たった環境に生きる私たちは、「解釈」というわざによってのみ、そのギャップを乗り越えることができるのです。