折々の言 2 一言の重み

花
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

 一、 穴のあく人生

 前回、私は深刻な不況に代表される人生の諸問題の中で、困難は困難として「とにかく、その中を生きてみよう……」「行けるところまで行ってみよう」という決心や覚悟が必要かもしれないという意味のことを述べてみたが、よく考えてみればこれは、そもそも私たちの生命が支えられたものであり、また今日の私たちが、この時代に有無を言わさず置かれたものであることを考えてみれば、ある意味でそうとしか考えられないもののようにも思われる。

 実際、もう三十年近くも前のことであるが、初めてロンドンを訪れたとき、たしか当時のイギリスは、深刻な構造不況のさなかにあって、街のいたるところに「For Sale」の看板が掲げられていたと記憶するが、私たちを迎えに出た宣教師が「イギリスでは、父、子、孫と三代にわたる失業の家族もある」と語ってくれたことがあった。歴史にはたしかにそうした側面があるのかもしれない。

 ところで、前回リストラにあった中高年のサラリーマンが、その体験から「今まで気づかなかった、考えなかった世界のことを考え始めた」という意味のことを述べたお話を紹介したが、この「人生の穴」と呼ぶべき事柄に関して、私には一つの忘れがたいエピソードがある。ノートルダム清心女子大学学長として長年労された渡辺和子さんのお話である。

 あるとき先生は、学生に「人生には穴があくことがある」と前置きされて、次のようなお話をされる。

「人生というステージに穴があくと、そこから隙間風が吹いて寒くなる。そこで(私たちは)それをふさごうと一生懸命になる。ところが、穴があいた中に見えてくるものがあるということを忘れがちになる。たとえば深い井戸の底に水がたまると白昼でも星影がそこに写っているという事実。」

 そして二学期になり、先生は一人の学生の訪問を受ける。

「私には、結婚を前提としてつきあっているボーイフレンドがいます。彼は、人一倍子どもが好きなのです。……(しかし)この夏、私が病気になり、婦人科の手術を受けないといけない、(もしかして)子どもが生めない体になってしまったかもしれないことを悩んで打ち明けたとき、彼は『僕は、赤ちゃんが生める君と結婚するのではなくて、君と結婚するんだよ』と言ってくれました。……私の人生に穴があかなかったら、この言葉は聞けなかったと思います。(『現代の忘れもの』 渡辺和子 日本看護協会出版会 63―64頁)

 二、助け合う社会と助け合えない社会

 このなかで私の興味をひく言葉は次の二つである。「人生には穴のあくことがある」、「穴があいた中に見えてくるものがある。」

 ところで、人生の窮地にあの学生のような言葉を聞けた人は幸いである。成功や勝利にも増して苦難や窮地が、人と人との連帯を深めたり、人生の真実に人を目覚めさせることも少なくないからである。以前この小冊子で紹介した山本周五郎の「ちゃん」や「臆病な武士」のたとえは、その好例であろう。職を失った父親や性格のもろさを抱えた夫をその家族や妻が責めるのでも、見限るのでもなく、見事に支えているからである(『こころの風景』『こころの光を求めて』いのちのことば社)。

 しかし、現実にはなかなかこのように事態は展開しないのではないだろうか。何事によらず効率が優先され、結果がすぐに求められる現代人は、何か不都合なもの、自分が不利益を被りそうな事態に関しては、驚くほど敏感で、いとも容易にその関係を切断しがちだからである。そして問題は、E・フロムが、「市場的関係」と呼んだ風潮が、会社組織のみならず、私たちの身近な日常生活、学校生活、家庭生活にまで及んでいるのが、今日の多くの社会の現実であるということではないだろうか。

 三、人の心を励ますもの

 しかし「関係存在」としての人間存在は、こうした「市場的関係」だけでは生き得ない側面を抱えているのも事実である。それゆえにこそ、あの女子学生は、ボーイフレンドの一言に感動したのだと思う。とすればこの「市場的人間関係」の拡大は、私たちにやり直しの機会を与えなかったり、人に「やる気」を失わせたりするがゆえに、支え合えない(支え合わない)社会の到来に少なからず関与しているのではないだろうか。

 というのは、人はまちがいを許したり、許されたりしてその関係が深まり、成熟していくものであるし、そうした失敗をある時期補ってもらってこそ、また別の時期にそのお返しができたり、気づきが起こって人間や世間への信頼が芽生え、いわゆる「お互い様」という相互性を養っていく存在だからである。度重なる失敗を許されて、元気や忠誠心、献身の思いを深めていく側面があることは、聖書に登場するイエスの弟子たちのエピソードを見たら、そこに美しく語られているように思われる(ヨハネ21章)。

 それゆえ、不況や困難時において、単に関係を切るとか、見限るということではなく、どれくらい「支え合う」、「助け合う」、「補い合う」努力をするかという問題は、人間や社会の本来性の一つと考えられるのである。最近、よく耳にするようになった「ワークシェアリング」(失業を少なくするために仕事を分かち合うこと)などという発想はもっと考えられてよいことだと思う。

 ともあれ、危機において、困窮時において、人間の真実やその人の本質、品性を表示する一言に出会えた人は幸いである。その努力は、たとえ残念な結果に終わっても、後々その人の心に長く余韻をもって語り続けられるにちがいないし、人や社会への信頼、希望の余地を残すにちがいない。実際、「危機」ということばの起源の中には、「好機」の意味も含まれているからである。