折々の言 14 若い牧会者のために(2)

工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

 一、教会の混乱

 毎年11月、軽井沢のセミナーが近づいて来ると私の心はいつも多少の不安と期待に揺れる。

 「不安」というのは、「様々な人生上のまた信仰上の問題を抱えてこられる方々のニーズに十分応えることができるのだろうか」という心もとなさであり、「期待」というのは、様々な苦しみの中を通られた方々であるがゆえにひょっとしたらすぐれた感性を持つ素敵な方々にお会いできるかもしれないと思うためである。

 このセミナーは、一九九〇年「神と人、信仰を語る」と題して、自由に今ある自分を語り合うことを目的として始められたものである。

 当時『信仰による人間疎外』(いのちのことば社)や『福音は届いていますか』(ヨルダン社)が出版された折でもあったので、信仰のあり方や、教会のあり方に素朴な疑問を抱いた人々が多く集った。そしてこの流れは今でも少なからず続いている。

 次の文章は、今回、セミナーに先立って私のもとに届けられたものの一つである。

 「13年前に洗礼を受け、開拓間もない教会で、多くのビジョンに向かって働かせていただきましたが、何年か前からふと『これで良いのだろうか』と疑問が湧いてきました。

 教会の拡大のため、成長のため……、初め、これらは神の御心なのだと信じてました。

 その裏でそういう働きをしている自分の自己拡大、自己実現の願望もあったのではないかと思える今日この頃です。そして今のままではダメだ、成長しなくてはダメだ、祝福を得なくてはダメだ、祈りが足りない、信仰が足りない、こんなメッセージの連続でしたから表面はどうであれ、私の心は不安と焦りで一杯でした。

 そんな折、工藤先生の御本や藤本先生の御本に触れ、そんなに無理しなくてもよいことが分かりました。先生がヤンシーやナウェンのことにも触れておられるのを知ってうれしくなりました。

 主人や子供は『方向性が違う』と、途中から教会を離れてしまいました。私は今、奉仕を降り、静かに、新たな求道活動を始めたいと思っております……」

 二、宣教という名の野心

 もう、10年も、こうした人々の声に耳を傾けているとこうした混乱を引き起こすある種の教会には、宣教という名の御心、教会の私物化、信徒の手段化、という共通のパターンのあることが見えてくる。

 この点に関し、スイスの精神医学者P・トゥルニエは、もう30年も前に「霊的な力の持つ危険性」について次のような警告を発している(『暴力と人間』ヨルダン社)。

 「危険なのは華々しい成功だけではなく、霊的権能もその危険性を含んでいる。指導者として認められ、神について語り、神のみ旨のあるところを人に敢て教えるなど、みな危険なことである……人々がわれわれの勧めに従うことは、神に従うこととなり、われわれに反対することは神に反対することになるということを考えてみればお分かりいただけるだろう」(二五四頁)。

 また「宣教は一種の征服でもあり」(二五五頁)支配や権力欲の充足もまぎれ込んでいるという。さらに、「他人の知らない一つのすばらしい真理を発見したという慢心も一種の優越感」なのだともいう(二五〇頁)。

 そして、熱心であればある程いとも安易に、この力のとりこに成り得るという。

 「考えてもみられたい。神的使命を賦与され、人々の健康のみならず魂の救いのために働き、神の教えを伝える者となることがいかに大きな力を意味するのか(二四三頁)。

 つまり「力」というものはいつでも慢心や支配的権威という欲望にも結びつきやすい弱さを内に秘めているものなのである。

 この捕らえ方から言えば、キリスト教界でよく言う「伝える」という一見耳ざわりのいい言葉は、その主張とは裏腹の「支配」という現実になって人々を苦しめることがある。

 これは実際、私が15年程前、キリスト教主義の病院組織で大いに苦しめられた問題の一つでもある。

 つまりこのセミナーにやってくる人々の多くは、教会の宣教や拡大のためにいつの間にか手段化され会社組織のような歯車に組み込まれてしまっていることに疑問を感じ始めた人々であり、まじめな信徒ほどその犠牲になりがちだということである。

 これは憂うべき実情である。

 三、教会の基盤

 そして困ったことに、こうした混乱の多くは教会を絶対化する所に一つの大きな原因があるように思われる。

 果たして教会はそれほど健全で絶対的な組織なのだろうか。

 罪人にすぎない私たちの集まりが、いかにそれがキリストの教会を名のったからといってにわかに、手放しで喜べるところになるなどとはとても思えない。

 かつてトゥルニエの会で『暴力と人間』を読んだ折、一人の信徒が次のようなレポートを書いてくれたことがあった。

 「私どもの教会では、献堂式を行った時、奉献祈祷文を作成し、その内容を教会のめざすところとし、機会あるごとに交読しています。

 その一部は、『教会を助けて、人生に疲れた者がいやされるところとしてください。教会を助けて、罪とさばきに打たれた者が、生きる勇気を得るところとしてください。教会を助けて、正義を求める者が起こされ、希望を失わないところとしてください。教会を助けて、むなしさを覚えて弱る者に、永遠の命に憩う姿をみせるところとしてください。教会を助けて、孤独な者が聖徒の交わりを楽しめるところとしてください。教会を助けて、闘争的衝動が、キリストの平和の証しへと変革される場としてください。教会を助けて、教会のエゴイズムに陥らないよう、あなたさまの真理の導きをえるところとしてください』などというものです」

 このレポートはもう3年程前のものであるが、教会が人を助けるというよりも、教会は助けてもらわなければならないものと位置づけた点で私の注意を強く引いた内容のものであった。

 それゆえ、私は願う。

 若い牧会者にはパウロが「力と愛」と並列して「慎み」(新共同訳聖書では思慮分別)の霊と表現した慎ましさを忘れて欲しくないと。

 また「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われた主イエスの御言葉を心に刻んで欲しいと。

 なぜならこの姿勢こそ宗教者に求められる最低限の社会性ように思われるからである。