折々の言 1 生きること、信じること

ワイシャツ
工藤 信夫
平安女学院大学教授 精神科医

一、はじめに

 「いのちのことば」という一冊子を通して私は、これまで何度か、その年代、年代において考えたこと、気づいたこと、疑問に思ったことを文章にする機会を得た。それらは『信仰による人間疎外』『信仰者の自己吟味』『今を生きるキリスト者』などに形を整えてきたが、今、それぞれを振り返ってみると、三十代には三十代なりの、四十代には四十代なりの物事のとらえ方、悩みのあったことが分かる。

 そして五十代半ばに達した今、もう一度機会が与えられようとしているが、よく考えてみれば、それは恐れ多いことでもある。「生きる」ということ、「信じる」という人生の多岐にわたる課題に一石を投じてみようというのだからだ。しかしながら、人間が「考える葦」であり、人は他人の考えなり思想なりに触れて自ら発展を遂げていくことを考えると、それはそれで意味のある心の作業であるともいえる。あるときに出会ったことばが、自分を支えたり、思わぬ発想の展開を招くことも大いにあり得ることだからである。そこでまたしばらくこの誌面を借りて、折々に私自身が考え、思いついた事柄を読者に提供してみたいと思う。

 このささやかな試みが、少しでも同世代に生きるキリスト者の心を励ますことができれば幸いである。

二、混迷の時代に

 つい二、三年前、私たちは「ミレニアム」ということばを耳にしたように記憶する。そしてこのことばの背後には、二〇〇〇年、つまり二十一世紀という新しい世紀に対する「希望」が託されていたように思う。たとえば二十世紀を原爆や大量殺戮が可能となった「戦争の世紀」と称した人々は、二十一世紀に「平和」を期待したであろうし、環境汚染に地球の危機を感じ取った人々は「公害の時代」を反省し、二十一世紀に「共生の時代」を期待したにちがいない。

 しかし、新しい世紀も一年経ち、二年経つと事態はそう簡単ではないことが明確になってきている。巨大化、構造化したバブルの精算はそう簡単ではなく、不況はますます深刻化し、リストラや失業の声が巷にあふれている。それに伴って中高年の自殺者が急増し、メンタルヘルスの課題として大きくクローズアップされてきている。同世代にある者として、急にその家族に片親がいなくなったり、家族が路頭に迷ったり、子どもたちが大学をやめなくてはならなくなったらどうしようなどという不安がちらつく。そんな折り、十年ぶりに神戸で再開された「牧会を学ぶ会」で一人の若い牧師が次のような発題をした。

 私の教会に今回、思いがけないリストラにあって、大いに戸惑われた方が一人おられます。大手企業だったので、ご本人もご家族も「自分のところだけは大丈夫」と思っておられたらしいのです。しかしそれは思いがけないかたちで急速にやってきました。私はしばらく、全然そんなことに気づかずにおりました。外見は、以前と何ら変わることのない教会生活を送っておられたからです。

 ところがある日、その方は「先生ちょっとお話があって……」と夜遅く牧師館をお訪ね下さいました。そしてポツリポツリとこの半年間のことをお話ししてくださいました。ずいぶん長い間このお話を口外することをためらっておられた様子でした。そしてお話を聞きながら、私自身どうお慰めしたらよいのかと迷っておりましたら、その方は、最後にこう言われたのです。

「どうやら私は今まで恵まれるのは当たり前、生活が安定するのは当たり前、努力すれば結果はそのとおりのものが出るとばかり思ってきたようです。しかしこの歳になって、はじめて、人生は右上がりだけでなく、大変なときもあることに気づきました。今やっと不安定な、人生の、いや人間の現実というものが分かってきたようにも思うのです。」

 私はそんな発題を聞きながら、ちょうどその一週間前に福島で持たれた、私の母の九十歳の祝いの席での話を思い出した。明治、大正、昭和、平成と四つの時代に生きた母は、よく私たちに枕辺で関東大震災のこと、戦争のこと、昭和の大恐慌のことなどを話してくれたのだが、この日もまたその一端を口にしたのである。「そうだ、私たちの今の生活は、『塗炭』をなめた先人の歴史の上に築かれてきたし、これからも築かれていくにちがいない。」そう思うと、右上がりの成長が当たり前と思い込む私たちの世代には、何か不自然さや無理があるのではないかと思えてきた。先人や歴史がそう物語っているのであれば、当然私たちもまたその例に倣うべきではないだろうかと思い出したのである。

三、不安を引き受けるということ

 こんな話を聞いたことがある。文政十一年、越後を襲った大地震の折り、良寛和尚が知人に「地震は、信に大変に候。……しかし災難に逢時節には災難に逢がよく、死ぬ時節には死ぬがよく候」という手紙を宛てたという。

 私たちの心の中には、苦しみを苦しみとして引き受けられず、不安を生きられないゆえにかえって多くの不幸を呼び込んでしまう側面があるように思えるが、もしかしたら苦しみを苦しみとして、不安を不安として生きるとき、あの若い牧師の発題のように、今まで見えなかったものが見え、感じられなかったものが感じられてくるのかもしれない。

 私たちの歩みは、使徒パウロのように「神は、いかなる艱難の中にいるときでも私たちを慰めてくださる」と言い切れるかどうかは分からないが、少なくとも彼の歩みは、実に多くの災難に遭遇していることがわかる(IIコリント1章)。はたして私たちは、この混沌の中に何を発見するのだろうか。