戦争を知らないあなたへ ◆ルソンの山々を逃げ回って

太田結子
日本基督教団 野幌教会教会員

一九四四年十二月初め、ルソン島の日本人婦女子は、貨物船の底に、缶詰の鰯のようにつめこまれました。でも、マニラ湾内で爆撃をうけて沈みました。私は十四歳でした。
マニラ日本人教会の牧師だった父は日本軍からの家族への危害を心配して、現地召集に応じて、一つ星の兵隊になりました。角砂糖を一つほおばって、すっといなくなったのが、父を見た最後でした。
激しいマニラの米日の空中戦のあったクリスマスイヴの翌日、市街戦を逃れてルソンの山野を歩き回ることになりました。現地の人々が日本兵によって追い出された村に、日本人部落がつくられてすぐに、走り寄ってきた同級生のお母さんが「お父さん戦死ですって! 今、聞いたんですよ」と言われました。「そうですが」と言いながら「あのお父さんが弾になんかあたるものか」という思いでいっぱいでした。
その後すぐ母のところに軍属が来て、父が機銃掃射で撃たれて即死したことを伝えました。そのときの母の顔は、まったくの無表情で、まるで他人の噂話を聞いているかのようでした。軍属が帰ってから、母はいつものように共同炊事場へご飯の配給をもらいに行き、いつものように母と私と妹三人でご飯を食べ終えました。
私たち家族に気を遣ってか、黙っている同室の人々の目を避け、母は校庭の片隅に私たちを連れ、祈り始めました。「天のお父様、私たちの大切なお父さんが召されたのは、あなたのみこころであることを信じます。私たちのお父さんの地上での仕事が見事に終わって、あなたのそばに召されたのであることを信じます。どうぞ私たちのお父さんが安らかな天上の生活ができますよう、みこころをかけさせたまえ。残りました私たち三人の上に、これからどんな苦難がきましても、強く最後まで正しく生きられますよう、明るく耐えていけますように、どうぞお守りください……」
校庭の片隅で、私と妹の前で切々と祈る母が、とうとう泣きだしました。たった八つになったばかりの妹も「父の死」ということがわかったのか、泣きだしました。母の祈りの声も途中で途絶え、最後は三人の泣き声だけになったことを思い出します。