戦争の記憶 Ⅰ 「教会の責任」 ◇戦中、戦後の教会と私

藤澤 一清
日本バプテスト連盟 花小金井教会員

太平洋戦争開戦が一九四一年一二月八日であったことから、毎月八日は「大詔奉戴日」と定められた。この日に、国民は天皇の意思である戦争を有り難く引き受け、自らの命を天皇にささげていく決意を確認したのであった。
日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の朗読、神社参拝などが推奨された。生徒は、白飯に梅干しの「日の丸弁当」を学校へ持参した。
私はよく、友だちと喧嘩した後などに、「お前の家は米英のスパイだ!」と、捨て台詞を浴びせかけられた。孤立するのを恐れていた私は、大詔奉戴日の早朝、親には黙って近くの諏訪神社に出かけ、友人と参拝した。もちろん、親は気づいていたはずである。しかし、厳しい状況の中を自力で生き抜いていかねばならない子の心中を察し、父と母も思い悩んでいたのだろうと思う。……このようにして私は、軍国少年になろうと日々努力したのであった。
一九四一年、多くの教派・教会の代表者が東京に集まり、国民儀礼を伴う総会で「日本基督教団」が成立した。もちろん参加を拒否した教派・教会も存在したが、なしくずしにされていった。統理者は政府高官(勅任官)に任ぜられ、閣下と呼ばれた。そして、天皇の祖神である伊勢神宮に参拝し、日本基督教団の成立を報告し、教会の繁栄を祈願した。
また、天皇拝謁の機会を与えられ、教会が国家に初めて公認されたかのように喜んだ。教会は天皇に跪いたのである。教会では、戦闘機献上の献金も集められていた。
(『子どものとき、戦争があった』より一部抜粋)

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