恵み・支えの双方向性 第22回 泣くから悲しい

柏木哲夫
淀川キリスト教病院理事長

以前、俳優養成所で演技の指導場面を見学したことがあります。数人の俳優の卵に向かって演技の指導者が「泣きなさい!」と命令すると、卵たちは悲しそうな声を上げて泣くという動作をします。これを繰り返していると、泣く動作をするだけで涙が出てきて、その後に悲しいという情動が出てくるというのです。後で聞いたことですが、泣き崩れるという動作をしただけで涙が出る人は演技がかなり上達した証拠だということです。未熟なままで映画などに出るときは目薬を使うとも聞きました。

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演技の練習を見て、私は「ジェームズ・ランゲ説」を思い出しました。これはアメリカの心理学者ジェームズ(W. James)とデンマークの心理学者ランゲ(C. Lange)とによって、一八八四―一八八五年の同じころ唱えられた情動の本質についての説です。
普通は「悲しいから泣く」と考えますが、この説では「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」のだというのです。普通悲しい出来事(刺激)→悲しいという気持ち(情動)→涙が出る(身体変化)という道筋を考えますが、この説では刺激→身体変化→情動という道筋を考えるのです。
この説を専門的に言うと、「情動の末梢神経説」ということになります。末梢神経系の生理学的反応が自覚的な情動経験に先行して起こるという考え方を意味します。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのであり、嬉しいから笑うのではなく、笑うから嬉しいのであり、敵意を抱くから怒るのではなく、怒るから敵意を抱くというのがジェームズ・ランゲ説の考え方です。

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ジェームズ・ランゲ説の興味深いところは、自分自身の情動が起こるより前に涙が流れたり、心臓の鼓動が早くなって発汗したりといった生理学的反応が起こるということです。これは、恐怖体験の瞬間を思い起こすと分かりやすいのですが、突然、自動車が自分の真横を猛スピードで走り去ったときなどには、やはり心臓の鼓動が激しくなったり、背筋が寒くなったりといった生理的反応が、危なかったという恐怖感情よりも先に起こっています。

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話を俳優養成所に戻します。そこで起こったことは、まさに、このジェームズ・ランゲ説を裏づけるものではないでしょうか。泣くという動作(刺激)が、涙が出るという身体変化を起こし、それが悲しいという情動につながるということです。泣くから悲しいというわけです。この説をもう少し拡大解釈すると、行動(言動)が「気持ちを創る」という側面もあるのではないかと思うのです。
その例として、「ありがとう」という言葉と「感謝の気持ち」の醸成との関係について述べてみたいと思います。私は三十歳から三十三歳の三年間セントルイスのワシントン大学に精神科のレジデントとして留学生活を送りました。家内と五歳、三歳、一歳の子どもたちと一緒でした。
ホームパーティーに招かれたときにとても印象的な経験をしました。食事のときに、お皿に食べ物を入れるたびに、その家の三歳、五歳の子どもが、必ず「Thank you」と言います。塩のビンを渡しても「Thank you」、ドアを開けてあげても「Thank you」です。私は「Thank you」と言うのが習慣化していると思いました。
もちろん、両親がそのようにしつけているのです。これは真似をしてもいいしつけだと思いました。以後、三人の子どもたちに「ありがとう」という習慣を身につけるように、意識的に努力しました。言動が気持ちを創るという観点からすると、事あるごとに「ありがとう」と口に出して言う習慣があれば、感謝の気持ちが醸成されるのではないでしょうか。

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臨終の床で、家族が患者にかける三つの短い言葉があります。「ありがとう」という感謝の言葉、「ご苦労さま」というねぎらいの言葉、「ごめんね」という謝罪の言葉です。感謝、ねぎらい、謝罪は日常生活で醸成された気持ちです。日常生活の中で、この三つの言葉を使う習慣をつければ、それぞれの言葉がもつ気持ちが醸成されるのではないでしょうか。