恵み・支えの双方向性 第21回 ことばの変化と方向性

柏木哲夫
淀川キリスト教病院理事長

随分前のことですが、一九六九年から三年間、ワシントン大学の精神科に留学しました。患者さんの常識を検査するのに、三つのことわざを尋ねるというきまりがありました。その一つがA rolling stone gathers no moss(転石苔むさず)でした。日本では「職業を変えてばかりいる人は地位も財産もできない」という意味です。動きすぎると大切な苔が生えないということです。しかし、アメリカでは全く反対の意味です。すなわち、「どんどん職場を変えるのが大切」という意味になります。「動かないと、あの嫌な苔が生えるぞ」ということです。イギリスでは日本と同じ意味になります。

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意味の違いは、「苔」をどう見るかということから生じます。日本やイギリスでは、苔は良いもの、貴重なものとみなされ、アメリカでは悪いもの、厄介なものとみなされるからです。このように一つのことばが国によって、全く別の意味に使われることがあるのです。
ことばはまた、時代の流れによって、その意味が変わってきます。その良い例に「情けは人のためならず」ということわざがあります。「情けは人のためかけておけば、巡り巡って自分に良い報いが返ってくる」という意味の言葉です。しかし、最近これを「人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならない」と解釈する人が増えてきて、平成二十二年(二〇一〇年)の調査によると、ほぼ半々になっているということです。
「苔むさず」の場合は国によって見方が違うので解釈が異なるということで、比較的理解できるのですが、「情け」の場合はその方向性が時代に沿って変化するということなので、事態はやや複雑です。これは方向性の変化を含んでいます。「情け」は人に向かっているようで、結局は自分に向かってくるものだというのが伝統的な解釈です。それに反して、人のためにならないというのであれば、どちらの方向にも向かないということになります。

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ことばが持つ意味を「方向性」という「切り口」で考えると、新しい洞察が生まれることがあります。「恵み」は神さまから私たちに与えられる一方的な贈り物だと言われます。私たちが何かを神さまに向かってしたから、神様から恵みが与えられるという条件付きのものではなく、無条件に、一方的に与えられるものなのです。
八木重吉の詩に

 いのりの種子は天にまかれ
 さかしまにはえて地にいたりてしげり
 しげりしげりてよき実をむすび
 また種となりて天にかえりゆくなり

というのがあります。この詩を「方向性」という観点から見ると、三つの方向性があるということがわかります。第一はいのりという種子がこの地から天に向かうという方向性。第二はその種子が天で発芽し、地に向かって大きく茂るという天から地への方向性。第三は地で茂った木に実がなり、種子となり、天にかえるという、地から天への方向性です。
天にまかれた祈りの種子が天で発芽し、さかさまに地に向かって生長し、地で茂り、実を結び、種となって天にかえった例を二つ挙げてみたいと思います。
一つは、私が七年間学院長を勤めた名古屋の金城学院です。一二六年前の一八八九年にアメリカの南長老派教会宣教師アニー・ランドルフによって建てられ、現在、幼稚園、中学、高校、大学、大学院をもち、園児、生徒、学生、院生を合わせると、約八千名の大きな教育機関になりました。
もう一つは、私が現在理事長をしている淀川キリスト教病院グループです。六十年前にやはりアメリカの南長老派教会医療宣教師フランク・ブラウンによって建てられ、本院六百三十床、医師二百名、看護師八百名を含むスタッフ千八百名の大きな病院になりました。
キリスト教は日本の社会の中で、教育と医療の分野で大切な働きをしてきたと思います。キリストの三つの業(教育、宣教、癒し〔マタイ四・二三〕)にならうものだと思います。
学院と病院の歴史を振り返ってみると、まさに前述の三つの方向性があったことがわかります。教育と医療の業が乏しかった地において、宣教師と送り出した教会の熱い祈りの種子が天にまかれ、発芽し、逆さに伸びた木が地で茂り、種子が天にかえっていくのだと思います。