天国へのずっこけ階段 第6回 歓迎の歌って……

松本望美
北朝鮮宣教会所属/韓国在住

 「歓迎する」というスタイルには、日韓で違いがある。

 韓国の教会では、初めて教会に来た人やゲストに対して、実によく気を遣って世話をしてくれる。「歓迎されてるなあ」と自然に感じることができる。国民性もあるのだと思うが、シャイな日本人の教会(海外含む)では、ほったらかしにされることが多い。

 礼拝が終わると、そそくさと自分たちの奉仕を始める、愛餐会でも「どうぞ、こちらへ」などと声をかけてくれる教会はそんなに多くない。ほうっておかれて、しかたなく自分なりに考えて食卓についたりする。これは私だけが感じていることではないらしく、ある巡回伝道者と話しているときにも「ああ、そうそう!」とうなづいていた。

 ノンクリスチャンを導くためには、日韓を問わず、心からの歓迎ムード、あたたかい教会の雰囲気は必須だ。大阪のある教会では、私のためのお世話係を決めていてくれた。その教会には本当に居やすかったし、溶け込めたような気がした。

 韓国から一時帰国をして、日本の教会に行ったときなどは「このドライなムードは何?」と思うが、韓国へ戻ると「望美宣教師、今年こそ結婚しなさい」など言われて、「ちょっと、ほうっておいていただけますか……」となる。足して二で割れたらちょうどいいと思うが……。

 それにしても、「歓迎」に関しては、本当に申しわけないと思っていることがある。

 韓国では、初めて訪問する教会で、「今日、初めていらっしゃった方は、前に出てきてください」とか、「その場で立ってください」と言われる。すると席についている会衆が「君は~愛されるため生まれた~」とか、そのほかの讃美を、私に向かって思い切り手を伸ばして歌ってくれるのであるが、私は非常に苦手だ。

 歌って歓迎してくれるのには感謝するが、私は立ってしまったことをひどく後悔する。拍手だったら一瞬で終わるが、一曲すべてを歌われると、その間どうしていいかわからない。歌詞すら知らないときもある。前に出ているとOHPで映し出されている歌詞を見ることもできず、ただどこかの一点を見つめることしかできない。「はずかしい」という感情よりは、「助けてほしい」といったほうが正しい。だから、「初めての方は……」と言われても涼しい顔して常連のふりをすることもある。。

 日本の教会でもそれをやっている教会があり、「じゃあ、望美宣教師を歓迎しましょう!」と言われたことがある。例のごとく歌を歌われたのだが、困惑した顔をしていたかもしれないというか、……わがまま宣教師ですいません……。