八木重吉に出会う 詩の素朴さを体感する

編集部

八木重吉記念館 「日本一小さな記念館、文学館だけど、日本一大きな心を伝えている」。 八木重吉記念館を守ってきた重吉の甥、八木藤雄さんはしみじみと語り終えた。その言葉には、二十九歳で夭折した叔父に、また叔父の詩に対する思いが凝縮されているようだ。

 東京都町田市にある重吉の生家に、八木重吉記念館がある。当時から残っている蔵を改装し、一九八四年に開館。以降、藤雄さんが記念館を守り続け、多くの来館者に重吉の生き様を紹介している。

 詩稿や著書、絵画、写真や詩人高村光太郎による直筆の『定本八木重吉詩集』序の原稿と一緒に、重吉の晩年に、病床で苦しみながら愛する妻とみに書き送った手紙も残されていた。

 みみずがはうような字で、「とみよ、はやく来てくれ」と訴えるその手紙を手にしたとみの心中を思い巡らす。富子夫人が、千葉県柏から結核療養所のあった神奈川県茅ヶ崎市へと片道三時間ほどかけて見舞いにいくと、家に残してきた子どもたちのことを思い、早く帰れと言われ、すぐさま後ろ髪ひかれながら帰途に着いたと、とみは回顧していたという。

 『八木重吉に出会う本』(いのちのことば社)で、妻だった吉野登美子さん(とみ)が重吉との思い出を語っている。「ふたりでリボンを買いにいって詩集を作りました。自分の原稿を綴って題をつけて、小さな詩集にして……。」なぜだか印象に残っていたくだりだった。記念館の展示台に所狭しと置かれた、色あせた、でも色とりどりのリボンがついた詩集が、重吉ととみの幸せだった時代を物語っているように思えた。

 藤雄さんにとって、叔父重吉との思い出は、その腕に抱かれた記憶がかすかにあるだけだ。それにもかかわらず、ライフワークとして重吉の詩を守り続ける。

 重吉は「悲しみの詩人」と折りにつけて伝えられるが、藤雄さんは言う。「重吉は、心のあたたかい優しい詩人であり叔父でありました」。そんな重吉の素直な優しい表現を、一人でも多くの人に読んでもらいたいと願っている。

「重吉が亡くなって、また、いとこの桃子・陽二がいなくなり、後継者がいなくなり淋しく思っていました。二十年ほど前に、形のある記念館としてファンの要望に応えたいとの思いが強くわき上がってきました。私がいなくなった後も、長女が続けてくれるということです」

 記念館には、多くの人が集う。ふらりと立ち寄った人が、自殺を思いとどめ生きる勇気を与えられ、帰っていったことも何度かあったという。

 記念館を訪れたのは、沈丁花が小さな花を開き始めている季節だった。藤雄さんは記念館の庭に咲くその枝を切り、「おみやげに」とくれた。記念館の目の前のバス停から、バスが見えなくなるまで手を振り続けてくれた藤雄さんの姿に、重吉の詩のもつ素朴さを重ねずにはいられなかった。

(編集部)

八木重吉記念館
〒194-0211 東京都町田市相原町4473
tel.042-783-1877 要電話予約/午後5時以降

八木重吉記念館を訪ねて
ミニミニ写真集
藤雄さん重吉の甥である藤雄さんが、重吉の生涯から遺品についてガイドしてくれる。重吉の年譜を前にして
八木重吉記念館生家の一角にある蔵を改装して記念館を開館したのは1984年のこと。以後、藤雄さんが守っている
「素朴な琴」妻であった吉野登美子さんが一番好きだという詩「素朴な琴」が、重吉の筆跡で掘られている
直筆の遺稿直筆の遺稿には、活字では伝えることのできない重吉の人柄や思いを感じることができる
八木重吉記念館の展示物記念館には、遺稿、著作、絵画のほかに、幼くしてなくなった子どもたち桃子と陽二の遺作も遺されている